国鉄8620形蒸気機関車
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国鉄8620形蒸気機関車
京都鉄道博物館で動態保存されている8620形8630号機
京都鉄道博物館で動態保存されている8620形8630号機
基本情報
運用者 鉄道院→日本国有鉄道
九州旅客鉄道
製造所 汽車製造、川崎造船所、日本車輌製造、日立製作所、三菱造船所
製造年 1914年 - 1929年
製造数 672両
主要諸元
軸配置 1C
軌間 1067 mm
全長 16765 mm
全高 3785 mm
機関車重量 48.83 t(運転整備)
44.54 t(空車)[注釈 1]
動輪上重量 41.46 t[注釈 2]
炭水車重量 34.50 t(運転整備)
15.50 t(空車)[注釈 3]
総重量 83.33 t(運転整備)
60.04 t(空車)[注釈 4]
固定軸距 2286 mm
先輪径 940 mm
動輪径 1600 mm
シリンダ数 単式2気筒
シリンダ
(直径×行程) 470 mm × 610 mm
弁装置 ワルシャート式
ボイラー圧力 13.0 kg/cm2[注釈 5]
大煙管
(直径×長さ×数) 127 mm×3962 mm×18本[2]
小煙管
(直径×長さ×数) 45 mm×3962 mm×91本[2]
火格子面積 1.63 m2
全伝熱面積 110.9 m2[注釈 6]
過熱伝熱面積 28.8 m2[注釈 7]
全蒸発伝熱面積 82.1 m2[注釈 9]
煙管蒸発伝熱面積 72.0 m2[注釈 10]
火室蒸発伝熱面積 10.1 m2
燃料搭載量 6.00 t
水タンク容量 13.0 m3[注釈 8]
制動装置 真空ブレーキ→自動空気ブレーキ
最高速度 90 km/h[要出典][3]
出力 558 kW[要出典]
シリンダ引張力 91.2 kN[4]
粘着引張力 101.6 kN[5]
備考 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.226の諸元表の自動連結器付、石炭搭載量6 tの455 ft3形炭水車付の機体のデータに拠り[6]、必要に応じて『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表の同じく自動連結器付、455 ft3形石炭6 tタイプ炭水車付の機体のデータ[2]を注記。
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8620形の形式図、ねじ式連結器付、石炭搭載量6 tの455 ft3形炭水車付の機体
8620形は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院が導入した、旅客列車牽引用テンダー式蒸気機関車である。
導入の経緯[編集]
明治末期の1911-13年に急行列車牽引用の大型旅客列車用機としてイギリス・アメリカ・プロイセン(当時)の各国から、車軸配置2Cの8700形・8800形・8850形および、2C1の8900形が輸入され、1912年6月にはこれらを使用して新橋 - 下関間に特別急行[注釈 11]が運行されるようになった。一方、当時の運輸状況ではこれらより若干小型で急行列車も牽引可能な旅客用機の需用が多かったため[7]、九州・関西・東北・奥羽の各線でも使用できる[8]機体として、8800形などを参考に日本の蒸気機関車国産化技術の確立を目的として[要出典]本項で記述する8620形が導入された。汎用性を重視して、将来輸送量が増加した際には地方線区に転用することを考慮して[要出典]設計された。
ボイラーは、ベースとなった8800形などでは80.5 km/h(50 mph)での連続走行に対応した連続蒸発量を確保できる大型のものを搭載していたが、本形式の運行が想定された二級幹線の急行列車は連続走行速度64.4 - 72.4 km/h(40 - 45 mph)であり、ボイラー容量は8800形などにおける連続蒸気発生量の8割程度のもので十分とされたため、8800形などより二回り小型のボイラーを搭載することとした[9]。
一方、走行装置は動輪直径を8800形と同じ1600 mm、シリンダー直径も同形式と同じ470 mmとして急行旅客用に使用できるようにしている[7]。また、十分な粘着重量を確保する[7]とともに、線形が悪く勾配も多い二級幹線での運用に対応するため[9]動軸を3軸とした一方で、当時の旅客用機は先台車を軌道に対する追従性を考慮して2軸ボギー式とすることが通例となっていた[8]ため、ボイラーの小型化による重量減への対応として本形式では車軸配置2Cの8800形から先輪を1軸少なくして車軸配置を1Cとしながら、1軸の先輪と第1動輪とを特殊な台車に装備して2軸先台車と同様の作用をさせていることが特徴となっている[7]。
大正期における機関車の設計は、主要寸法を定める概要設計は鉄道院・鉄道省で行われ、詳細設計は鉄道省で実施する場合とメーカーで実施する場合の両方があった。例えば6700形やC51形は鉄道院・鉄道省で、9580形や9600形はメーカーで詳細設計を行っている。一方で本形式はD50形などとともに一部を鉄道省、一部メーカーで行う方式としており[10]、鉄道省の津田鋳雄、汽車製造会社の池村富三郎が詳細設計を担当した[8]。
また、製造は当初1913-19年度発注分は汽車製造会社が担当しており(一方で9600形は1917年度に汽車製造会社に発注されるまでは川崎造船所のみが製造している[11])、その後1920年度発注分から日立製作所[注釈 12]と川崎造船所が、1921年度発注分から日本車輌製造が、1924年度発注分から三菱造船[注釈 13]がそれぞれ製造に参加して1925年度までに計670両、間をあけて1928年度に2両が発注されている[12]。なお、このうちの日立製作所笠戸工場と三菱造船神戸造船所は第一次世界大戦終戦に伴う造船不況を契機に新たに機関車の製造に参入したものであり、日立製作所笠戸工場は当初鉄道省からの機関車の発注を得られなかったため、8620形を自主製造して製造能力を示してその後の受注につなげており[13]、神戸造船所は三菱鉱業美唄鉄道の2-4号機の製造実績があり、空気ブレーキ装置の製造所でもあったため受注を得ることとなっている[14]。
概要[編集]
ボイラー[編集]
ボイラーはベースとなった8800形のものより二回りほど小さい[9]もので、火格子面積は12.5%縮小した1.63 m2(17.5 m2)、内径は76 mm(3 in)小さい1245 mm(4ft 1 in)、煙管長は610 mm(2 ft)短い3692 mm(13 ft)となっており[15]、全伝熱面積116.3 m3、過熱面積27.6 m2、使用圧力は8800形と同一の12.7kgf/cm2(180 lbf/in2)である[1]。また、ボイラー中心高は8850形と同一の2438 mm(8 ft)で、機関車重心高さは8850形の1521 mmや9600形の1532 mmを超える1557 mmである[16]ほか、煙突中心がシリンダー中心より168 mm(72-5/8 in)前方にずれている [17]。
本形式の火室の火格子面積/火室容積比は、石炭中の炭素および揮発性成分[注釈 14]の両方が十分に燃焼されるため適切とされる1.6 - 2.0の範囲内の1.66となっているが、鉄道省(国鉄)の国産過熱式蒸気機関車で火格子面積/火室容積比がこの範囲の火室を有するのは本形式のほか、C50形(1.65)、D52形(燃焼室甲で1.81、燃焼室乙では1.79)および同形式のボイラーを使用するD62形、C62形のみで、その他の機体は適切値を下回っている[19]。
また、本形式は8800形などに引き続きシュミット式の過熱器を装備しているが、過熱蒸気の温度確保のため全伝熱面積に占める過熱面積の割合を9600形などまでの機関車より大きくしたことが特徴となっている[7]。シュミット式過熱器の開発元であるプロイセンのシュミット過熱蒸気会社[注釈 15]では、適切な温度の過熱蒸気を得るために大煙管外径、小煙管外径、過熱管外径の組み合わせごとに、小煙管と大煙管の本数の推奨比を定めており、本形式の場合では7.54であった[20]。8800形および8850形では推奨値5.28のところ、実機はそれぞれ6.43、6.29と大煙管の本数が若干少ない程度であったが、過熱蒸気の温度が通常では300 °Cを超えることができず、当初この原因について、狭火室で内火室が細長いため火室における伝熱が大きく、過熱管における伝熱がその分小さいためと考えられていた。しかし、広火室で小煙管本数/大煙管本数比もシュミット社の推奨値を超えていた9600形、4110 形でも300 °C以上の蒸気を得ることができなかった[20]。そこで本形式では大煙管をシュミット社推奨の14本から18本[21]、煙管本数/大煙管本数比をシュミット社推奨値の7.54から5.06と過熱面積を拡大して、300 °Cを超える過熱蒸気を得ることができるようになり[20]、1915年の試運転では340 °Cに達した[22]。本形式の実績を受けて、鉄道省では過熱面積/全蒸発面積比を重視、本形式の0.310を参考に、約0.3程度を目指す事としてボイラー設計を行い、例えば9600形も9658号機以降は大煙管本数を増やすことでこの値を0.264としている[23][注釈 16]。
1914年度発注の8644号機以降[25](8672号機以降とする文献もある[26][27]。)は煙室の通風改良のための設計変更が実施され、排気ノズルの先端が368 mm(14-1/2 in)を下げるとともに煙突内径を51 mm(2 in)拡大して[15]先端部の内径が406 mm(16 in)から457 mm(18 in)と太くなっており[28](9600形でも1914年発注の9652号機項に同様の設計変更が実施されている[29]。)、これはプロイセン王国のG・シュトラールの理論に基づき6700形で施行した結果が良好であったため、採用が拡大されたものである[30]。また、当初は煙室内の過熱装置前部に過熱機ダンパーを装備して惰行中における過熱管の過熱や力行中における過熱蒸気の温度過上昇を防止していたが、前述のとおり過熱温度が300 °Cを超える程度であったため[23]、1922年頃の製造分よりこれを廃止している[25]。
走行装置[編集]
車軸配置は1C(日本国鉄式)、2-6-0(ホワイト式)もしくは通称モーガルと呼ばれる配列で、当時の旅客用機関車で一般的であった2軸ボギー式台車を本形式では先輪と第1動輪を一体化した「省式心向キ台車」に置換えて曲線通過性能を良くしており、その最小半径は80 mで、後年のローカル線用タンク式蒸気機関車であるC12形と同等である[8]。また、走行装置の基本的な寸法は8800形をベースとしており、動輪直径、動輪軸間距離、シリンダー径×行程、ピストン弁径、シリンダー中心 - ピストン弁中心間距離、左右シリンダー中心間距離が同一となっている[注釈 17][15]。このため、シリンダー引張力(シリンダー平均有効圧をボイラー圧力の85 %とした場合の引張力[注釈 18][4])も同一の91.2 kNである[4]が、ボイラーは小型化となった一方で先輪が1軸少なくなったため、動輪上重量が39.76 t(1931年形式図で41.46tに修正[1])と8800形の36.77 tを上回り[15]、粘着牽引力(動輪周上重量に粘着係数(鉄道省では0.25に設定[注釈 19])を乗じた数値)は101.6 kNとなっている[5]。
この結果、動輪周上重量とシリンダー引張力の比率である粘着率[32]が4.5となり[33]、これは後継のC50形は4.3 - 4.5と同等であるが、8620および9600の代替機のC58形の3.2 - 3.3[34]や勾配線区用の4110形の4.3[35]を上回っている[注釈 20]。動輪の粘着力がシリンダー引張力を大きく上回る[注釈 21]ため、「絶対に空転しない機関車」ともいわれており、空転に苦慮していた乗務員からの信頼が厚く[要出典]、本来の旅客用高速機という用途から外された後は勾配のあるローカル線での仕業や、入換仕業で力を発揮した[注釈 22]。が、現役時代には引き出し時や坂道で空転を繰り返しながら走行する様がたびたび目撃されている[42]。ただし、これはシリンダ力が小さいことの表れでもあり、勾配線ではシリンダ力の不足により空転も起こさずに自然停車する様な状態だった。後継のC58は低下した粘着係数を撒砂などで補い、シリンダ力を強く持たせ勾配で止まらない設計となっている[43]。 そのため、勾配や曲線、トンネルなどが連続してる難所では性能が足りず苦闘する一幕もあり、こうした線区ではパワーに勝るC58が乗員と乗客の双方から歓迎された[44]。終戦直後の混乱期には老朽化と戦中の酷使が深刻化した4110形の補充として、米沢機関区から1両の8620形と9600形が試用されたが、勾配区間(33.3パーミル)では空転が多く、4110形が最も安定していた[45]。
台枠は板台枠[7]で、25 mm(1 in)厚鋼板製のフレームを機関車先端部 - 第1動輪部分間は857 mm(33-3/4 in)間隔、第2動輪部分 - 機関車後端部までは908 mm(35-3/4 in)間隔で左右に配置して、これを鋼板と山形鋼を組立てた前端梁、後端梁、デッキプレートなどや鋳鋼製のボイラー台などで箱型に組立てて[46]、そこに鋼板と山形鋼を組立てた歩み板や、鋳鋼製のシリンダーブロック、軸箱守、加減リンク受、逆転軸受、釣合梁受などを取付けたもので、第1動輪が横動するためにこの部分より前部が51 mm(2 in)狭くなっていることが特徴である[15]。
先台車は、現在のドイツ、オーストリアとイタリアに例があった、クラウス・ヘルムホルツ式(ドイツ語版)、ツァラ式[注釈 23]に着想を得て[注釈 24]島安次郎が考案して主要部分の設計を行い、詳細設計を汽車会社で実施したもの[7]で、当初「島式」、後に「省形心向キ台車」と呼ばれた[8]。構造は先台車の軸箱の左右と、第1動輪の中間軸箱の前部中央に設けられたピボットの間を山形鋼2本で三角形に結んで台車枠を構成し、この台車枠中央部とシリンダーブロック後部の間にコイルばねを内蔵した復元ばね箱を設置し、動軸の中間軸箱と復元ばね箱の間に復元心向棒を渡したものとなっており[47]、復元ばね箱を仮想的なピボットとして[8]、中間軸箱部を支点とする先輪の転向と第1動輪の32 mm(1-1/4 in)の左右動および、復元ばね箱自体の左右動を合わせて2軸ボギー台車と類似の動作をするものとなっている。また、1916年度発注の18628号機以降は先輪の軸箱上部にリンク式の復元装置を設けて半径122 m(400 ft)の曲線上での復元力を0.84 tから約2.2 tに強化するとともに、軸ばねからの荷重を先輪軸箱の左右に直接掛けていたものを釣合梁と釣リンクを介して軸箱上部中央の1点に掛ける方式に変更しており、従来の機体も同様の方式に改造をしている[48]。このほか、先輪径は当初直径970 mm(38 in)のものを使用していたが[49]、その後C51形と共通の940 mmのものに変更されており[50]、先台車軸箱もこれに対応した2種が用意されている[51]。
この先台車は設計側では構造が簡単で曲線通過性能も良いとされた一方で検修側の評判は必ずしも良くなかったとされ[8]、東京鉄道局の実績では、第1動輪のタイヤフランジの10000 kmあたりの平均摩耗量が、本形式の後継で車軸配置が同じ1CのC50形は0.49 mmであったのに対し本形式は1.22 mmと約2.5倍であった[52]ほか、この方式は先輪フランジの偏摩耗が生じることがあり[要出典]、本形式以外での採用例はない[注釈 25]。
ブレーキ装置[編集]
ブレーキ装置は当初自動真空ブレーキ、手ブレーキを装備しており、運転室下部にブレーキ用のピストン2基を搭載し、基礎ブレーキ装置は動輪3軸に作用する片押式の踏面ブレーキとなっている。また、制輪子は制輪子吊に直接取付けられる甲種[注釈 26]のうち、甲-9号を使用する[53]。
1919年に鉄道省は全車両に空気ブレーキを採用することを決定し、1921年から1931年上半期にかけて全車両が空気ブレーキ化されており[54]、本形式も1923年度発注の68661号機以降は空気ブレーキを装備して製造された[25]一方でそれまでの機体も順次真空ブレーキから空気ブレーキに改造されている。蒸気機関車用の空気ブレーキはアメリカのウェスティングハウス・エア・ブレーキ[注釈 27]が開発したET6を採用しており、この方式はH6自動ブレーキ弁、S6単独ブレーキ弁、6番分配弁、C6減圧弁、B6給気弁などで構成されるもので、その特徴は以下のとおりとなっている[55]。
構造が簡単で取付および保守が容易。
非常ブレーキが使用可能。
ブレーキ弁に連動して元空気ダメ圧力を2段階に設定可能。
後部補助機関車もしくは無火回送時においても客車・貨車と同様にブレーキが作用する。
連結器[編集]
「連結器#日本」も参照
連結器は当初、基本的にはねじ式連結器を装備していたが、北海道においては、道内最初の鉄道である官営幌内鉄道が1形(後の鉄道院7100形)に当初より並形自動連結器を使用して以降これを標準としていたため、本形式も1917年に最初に北海道に配置された18649号機以降がこれを装備していた[22]。なお、設置高さが後の鉄道省の自動連結器より低い660 mmであった[56]。
1919年に鉄道省は全車両のねじ式連結器を交換する方針を決定し[57]、まず、北海道内の車両の連結器高さを878 mmに変更することとして、1924年8月13-17日に一斉に工事を実施している[58]。続いて北海道以外の車両については、九州以外は1925年7月16-17 日に 、九州は7月19-20 日に一斉にねじ式連結器から自動連結器への交換を実施している[59]。本形式においてもこれに伴って連結器の交換を実施しているほか、1925年発注の78694号機以降は自動連結器を装備して製造された[25]。なお、当初は解放テコが連結器右側のみに設けられるものであったが、1930年頃より両側から解放操作が可能なものに改造されている[60]。
その他[編集]
外観は6700形以降D50形までの明治末期から大正期にかけての鉄道院・鉄道省の国産蒸気機関車の標準的なデザインとなっており、化粧煙突、前部デッキから歩み板にかけての乙形の形状が特徴であったほか、運転室側面裾部は8620 - 8643号機[61]が8800・8850形や9600形9617形までなどと同様のS字形、8644号機以降が8700形や9600形9618号機以降と同じ乙形の形状となっている[注釈 28]。また、空気ブレーキ装置を装備した1923年発注の68661号機以降は歩み板の後半部が一段高くなって運転室側面下部の乙字形につながる形状となっており、運転室裾部を炭水車台枠上部に揃えたものとなっている[63]。
砂撒き装置は当初は重力式のもので第2動輪の前側に撒砂される方式であった[49]が、空気ブレーキ装備後の1924年発注の78670号機から空気式となり[25]、第1動輪前方と第2動輪後方に撒砂される方式[64]となり、以前の機体も空気式に改造されている。
8620 - 8643号機の炭水車は、石炭搭載量は3.05 tで炭庫上部が外側に若干開いた形状の2670英ガロン(12.14 m3)形、8644号機以降は9600形9618号機以降のものと同一形式で石炭搭載量は3.30 t、炭庫上部が垂直の形状となった455 ft3(12.88 m3)形となっており、さらに18688号機以降は9600形49602号機以降と同じく、形式は455 ft3形のまま炭庫を上部に拡大して石炭搭載量を6 tとしたタイプとなっている[11][15][65][6]。
改造[編集]
本形式の複式のピストン弁は単式のものよりも平均有効圧が高いため採用されたものであったが、後に蒸気漏れが大きいことから単式が一般的となり、同じく複式であった9600形、D50形、C51形などとともに単式への改造が1930年代から第二次世界大戦後にかけて実施されている[66]。
当初は灯火類にランプを使用していたが、後のC51形やD50形が1927年度発注分より電気照明となり[67]、本形式もその後ボイラー上部に発電機を搭載して前灯、標識灯、運転室内灯、計器灯などが電灯化されている[68]。しかし電灯もランプである。
除煙板は1927年頃より各鉄道局で試験されていた除煙装置の一つで、1932年製のC54形から制式化されており、本形式においてもこの頃より一部の機体に追加装備されている[69]。また、後年には小倉工場式切取り除煙板(通称門鉄デフ)を装備した機体もある[70]。
前述の8620...68660号機の空気ブレーキ化改造においては、当初より空気ブレーキ装置を搭載していた68661号機以降と同様に歩み板を2段としてその下部に元空気溜を吊下げる方式と、段差無しの歩み板のままその上部に元空気溜を置く方式の2つの方式が採られている。一方、1927年頃より運転室の床を2段から1段に変更する改造が実施されているが、この際に運転室側面の裾部を従来通り炭水車台枠上部と合わせた低い位置のままとした機体と、運転室床面と合わせた高い位置まで上げて裾部形状をいわゆる”位置の高い浅い乙字形”もしくは”位置の高いS字形”とした機体の2種があり[63]、前者の運転室側面裾部の形状は、歩み板が段差無しの機体は”位置の低い浅い乙字形”もしくは”位置の低いS字形”、2段の機体は”深い乙字形”となっている。
本形式は長年に亘り運用されており、後年の改造は多岐にわたっているが、回転式火粉止や前照灯類の交換といった当時の蒸気機関車における一般的なもののほか、主なものは以下の通り。
ボイラーへの給水を排気によって加熱する給水加熱器は鉄道省においては1914年から試作・試用が始まった[71]が、本形式においても本省式、ウェアー式、本省細管式、住山式、ウォーシントン式、メカトーフ式が1921年から1925年にかけて計37両に搭載されている[72]。なお、給水加熱器は1923年製のD50形から制式化され[73]、在来の機体に対しては1938年度にかけて9600形の約200両やC51形のほぼ全機など553両に搭載されている[74]が、本形式への搭載例は多くない。
1928年にC51形6両に対して煙室を延長してシンダーによる沿線火災防止や旅客サービス向上などを図る改造が実施されている[75]が、類似の煙室延長改造が本形式においても一部の機体 (8657号機[76]、18629号機、28667号機[77]、38690号機[78]、68633号機[77]など)に実施されている。
煙突を化粧煙突からパイプ煙突に交換した機体[79]が多いほか、原形のものより長さの長い化粧煙突に交換した機体(18658号機[80]など)もある。
一部の機体(48674号機[79]、48676号機[81]、48679号機[70]、68658号機[81]など)は、入換時等の後方視界の確保のため、炭水車をC56形のものと同様の上部の幅を狭い形状に改造している。
鷹取機関区東灘支区で神戸港での入換用に使用されていた機体は煙突の前部に警鐘を装備しており(8651号機[82]、18670号機、48667号機[33]、88639号機[33]など)、この鐘は市街地の踏切等において汽笛の代わりに使用されるもので、空気シリンダーとテコによって動作するものであった。
一部の機体(48667号機[33]、48633号機[83]、78657号機[84]、48676号機[85]など)動輪をスポーク輪心からボックス輪心のものに交換している。
なお様々な改造が実装されたことで各動輪の軸重が変化している。当初は最大軸重は第3動輪の13.48t[86]であったが、改造により第2動輪の14.35tが最大となった[87]。のちに第2動輪は最大14.4tとなり最小軸重である第1動輪の13.3tと1t以上の差がある、他形式でも殆ど例のない軸重バランスの悪い形式となったばかりか、丙線規格の軸重も超過している[88]。
付番法[編集]
8620形の製造順と番号の対応は、1番目が8620、2番目が8621、3番目が8622、…、80番目が8699となるが、81番目を8700とすると既にあった8700形と重複するので、81番目は万位に1をつけて18620とした。その後も同様で、下2桁を20から始め、99に達すると次は万位の数字を1繰り上げて再び下2桁を20から始め…という八十進法になっている。したがって、80番目ごとに万位の数字が繰り上がり、160番目が18699、161番目が28620、…となっており、番号と製造順は万の位の数字×80+(下2桁の数字-20)+1=製造順という関係となる。
例えば58654であれば万の位の数字が5、下2桁が54となるので、製造順は5×80+ (54-20) +1=435両目となる。
製造[編集]
鉄道省で672両を導入したほか、樺太庁鉄道向けに15両、台湾総督府鉄道向けに43両、地方鉄道(北海道拓殖鉄道)向けに2両の同形機が製造されている。
鉄道省[編集]
鉄道省では大正時代の標準形として1914年から1929年の間に672両(8620 ... 88651号機)を導入した。半数以上が汽車製造会社製造。のちに川崎造船所、日本車輌製造、日立製作所、三菱造船所も製造した。樺太庁鉄道の15両は、1943年の南樺太の内地編入に伴い鉄道省保有となり、88652 - 88666号機となっている。樺太向けの15両を鉄道省としての製造両数に含め、製造両数を687両と記載している文献もある。
竣工年度ごとの番号、製造所、製番、両数は下表のとおり。
8620形製造一覧[89]
(上段:番号 下段()内:メーカー製造番号)
年度 汽車製造 日立製作所 川崎造船所 日本車輌 三菱造船所 合計
番号 両数
1914年度 8620-8672
(119-177) 8620-8672 53両
1915年度 8673-8695
(178-200) 8673-8695 23両
1916年度 8696-8699
18620-18652
(201-237) 8696-8699
18620-18652 37両
1917年度 18653-18687
(238-279) 18653-18687 35両
1918年度 18688-18699
28620
(317-329) 18688-18699
28620 13両
1919年度 28621-28681
(330-356,378-411) 28621-28681 61両
1920年度 28682-28699
38600-38648
(412-473) 38649-38660
(1-12) 38661-38678
(628-645) 28682-28699
38620-38678 77両
1921年度 48637-48686, 48697-48699
58620-58622
(516-576) 48627-48636, 48687-48696
58629-58634
(17-42) 38679-38699
48620-48626
(646-673) 38679-38699
48620-48699
58620-58622,58629-58634 110両
1922年度 58660-58699
68620-68621
(605-652) 58635-58659
68650-68654
(43-72) 68622-68639
(872-889) 58623-58628
68640-68649, 68655-68660,
(54-59, 65-80) 58623-58628, 58635-58699
68620-68660 112両
1923年度 68661-68670, 68681-68699
(73-90, 98-113) 68671-68680
78620-78623
(87-94, 107-112) 68661-68699
78620-78623 43両
1924年度 78670-78673, 78687-78692
(808-817) 78640-78659
(114-124, 136-144) 78625-78636[表注 1], 78674-78682
(986-990, 995-999, 1010-1011, 1032-1040) 78624, 78663-78669[表注 2]
(113,125-130, 132) 78637-78639, 78660-78662
(3-8) 78624-78682, 78687-78692 65両
1925年度 88620-88626
(859-865) 78694-78699
88638-88639
(156-160, 174, 187-188) 78683-78686,78693
88627-88632
(133-137, 142-143, 146-147, 152-153) 88633-88637
(11-15) 78683-78686, 78693-78699
88620-88639 31両
1926年度 88640-88649
(189-198) 88640-88649 10両
1927年度 0両
1928年度 0両
1929年度 88650-88651
(331-332) 88650 - 88651 2両
計 384両 137両 85両[表注 3] 55両[表注 4] 11両 8620-88651 672両
^ 『機関車表』 p.1212では78635-78636号機は日本車輌発注で製造番号112-113予定であった機体が、川崎造船に振替えられ製造番号1010-1011となったものとしている[90]一方、『機関車の系譜図 4』 p.498ではこの2両を日本車輌製としている[1]。
^ 『機関車の系譜図 4』 p.498では78635-78636号機を日本車輌製としている[1]。
^ 『機関車の系譜図 4』 p.498では83両としている。[1]。
^ 『機関車の系譜図 4』 p.498では57両としている。[1]。
また、発注度ごとの製造所、製造両数は下表のとおり。
8620形発注年度別製造両数一覧[12]
年度 汽車製造 日立製作所 川崎造船所 日本車輌 三菱造船所 合計
1913年度 12両 12両
1914年度 40両 40両
1915年度 36両 36両
1916年度 30両 30両
1917年度 30両 30両
1918年度 16両 16両
1919年度 63両 63両
1920年度 42両 12両 46両 100両
1921年度 56両 51両 6両 113両
1922年度 42両 5両 18両 16両 81両
1923年度 29両 15両 44両
1924年度 10両 20両 21両 11両 6両 68両
1925年度 7両 18両 7両 5両 37両
1926年度 0両
1927年度 0両
1928年度 2両 2両
計 384両 137両 85両[表注 1] 55両[表注 2] 11両 672両
^ 『機関車の系譜図 4』 p.498では川崎造船所の総製造両数を83両としている。[1]。
^ 『機関車の系譜図 4』 p.498では日本車輌の総製造両数を57両としている。[1]。
番号、発注年度ごとの設計変更事項は下表のとおり。
8620形番号別設計変更一覧[25]
番号 発注年度 運転室形状 煙突・煙室 先台車 過熱器ダンパー ブレーキ装置 歩み板形状 砂撒装置 連結器 炭水車 両数
8620-8643 1913年度以降 側面裾部形状:S字形
後部妻板:無 煙突:内径406 mm
排気ノズル高さ:高[表注 1] 先輪軸箱:復元装置無 有 真空ブレーキ 段差無 重力式 ねじ式連結器 2670英ガロン形 24両
8644-8699
18620-18627 1914年度以降 側面裾部形状:乙字形
後部妻板:有 煙突:内径457 mm
排気ノズル高さ:低 455 ft3形 64両
18628-18687 1916年度以降 先輪軸箱:復元装置有 60両
18688-18699
28620-28699
38620-38699
48620-48699
58620-58699
68620-68660 1918年度以降 無(1922年6月以降) 455 ft3・石炭6 t形 372両
68661-68699
78620-78669 1923年度以降 空気ブレーキ 2段形 89両
78670-78693 1924年度以降 空気式 24両
78694-78699
88620-88652 1925年度以降 自動連結器 39両
^ 8672号機までとする文献もある[26][27]。
樺太庁鉄道8620形[編集]
樺太庁鉄道の8620形は鉄道省8620形の同形車で、15両 (8620 - 8634号機) が製造されて豊原機関庫、泊居機関庫、真岡機関庫に配置された[91]。8620 - 8623号機の運転室は当初は鉄道省の機体と同様のものであったが、後に運転室後部を炭水車前端部まで延長して幌で接続した耐寒構造の密閉型となり、その後の増備機は当初より耐寒密閉型で製造されている[92]ほか、連結器は鉄道省の当初北海道配属となった機体と同じ取付高さの低い自動連結器を装備している一方、ブレーキ装置は真空ブレーキを装備している[1][注釈 29]。1928年および1929年製の11両は、製造当初8万番台の番号 (88620 - 88630) であったが、すぐに既存車の続番に改番された。1943年4月1日の樺太の内地編入による樺太庁鉄道の鉄道省への移管と樺太鉄道局の設置に伴い、これらの機体も鉄道省の8620形に編入されて88652 - 88666号機となった[91]。なお、樺太鉄道局の車両は順次空気ブレーキ化されており、後述する樺太鉄道局へ転属した本形式も空気ブレーキを装備していたが、88652 - 88666号機は1944年1月末時点では全機が真空ブレーキのままであった[93]。
製造年次ごとの番号、製造所、製番、両数は下表のとおり。
樺太庁鉄道8620形製造一覧[91]
(上段:番号 下段()内:メーカー製造番号)
年 汽車製造 日立製作所 川崎造船所 日本車輌 三菱造船所 合計
番号 両数
1922年 8620-8621[表注 1]
(590-591) 8620-8621 2両
1923年 8622-8623[表注 2]
(739-740) 8622-8623 2両
1924年 0両
1925年 0両
1926年 0両
1927年 0両
1928年 88620-88625→改番8624-8629[表注 3]
(314 - 319) 88620-88625→改番8624-8629 6両
1929年 88630→改番8634[表注 4]
(1103) 88626-88629→改番8630-8633[表注 5]
(349-352) 88626-88630→改番8630-8634 5両
合計 5両 10両 0両 0両 0両 8620-8623
88620-88625→改番8624-8629
88620-88630→改番8630-8634[表注 6] 15両
^ 鉄道省88652-88653
^ 鉄道省88654-88655
^ 鉄道省88656-88661
^ 鉄道省88666
^ 鉄道省88662-88665
^ 鉄道省88652-88666
番号、製造年ごとの設計変更事項は下表のとおり。
樺太庁鉄道8620形番号別設計変更一覧[92]
番号 発注年度 運転室形状 煙突・煙室 先台車 ブレーキ装置 歩み板形状 砂撒装置 連結器 炭水車 両数
8620-8621[表注 1] 1923年 側面裾部形状:乙字形
通常型[表注 2] 煙突:内径457 mm
排気ノズル高さ:低 先輪軸箱:復元装置有 真空ブレーキ 段差無 重力式 自動連結器 455 ft3・石炭6 t形 2両
8622-8623[表注 3]
1923年 2両
88620-88625→改番8624-8629[表注 4] 1928年 側面裾部形状:乙字形
耐寒密閉型 2段形 6両
88626-88629→改番8630-8633[表注 5] 1929年 4両
8630→改番8634[表注 6] 段差無 1両
^ 鉄道省88652-88653
^ 後に耐寒密閉型に改造
^ 鉄道省88654-88655
^ 鉄道省88656-88661
^ 鉄道省88662-88665
^ 鉄道省88666
台湾総督府鉄道E500形[編集]
E500形[94]は、台湾総督府鉄道に納入された鉄道省8620形の同形車で、1919年から1928年にかけて、43両 (500 - 542号機)が製造された。形態は歩み板1段、運転室側面裾部乙字形、真空ブレーキ装備、炭水車は455 ft3・石炭6 t形で、連結器は当初より自動連結器を装備していた[95]。1937年に形式がC95形に改称されたが、番号は変更されていない[96]。第二次世界大戦後にこれらを引き継いだ台湾鉄路管理局が1947年にCT150形(CT151 - CT193号機)に改形式・改番している[96]。
戦後、事故廃車となった2両(CT154, CT155号機)の部品を組み合わせ、一部を新製して、1両(CT194号機)が再製されている[要出典]。
製造年次ごとの番号、製造所、製番、両数は下表のとおり。
台湾総督府鉄道E500形製造一覧[96]
(上段:番号 下段()内:メーカー製造番号)
年 汽車製造 日立製作所 川崎造船所 日本車輌 三菱造船所 合計
番号 両数
1919年 500-501[表注 1]
(357-358) 500-501 2両
1920年 502-516[表注 2]
(417-419, 449-456, 465-468) 502-516 15両
1921年 517-524[表注 3]
(512-515, 545-548) 517-524 8両
1922年 525[表注 4]
(583) 525 1両
1923年 526[表注 5]
(871) 526 1両
1924年 527-530[表注 6]
(735-738) 527-530 4両
1925年 531-533[表注 7]
(1072-1074) 531-533 3両
1926年 534-536[表注 8]
(894-896) 534-536 3両
1927年 537[表注 9]
(240) 538-540[表注 10]
(182-184) 537-540 4両
1928年 541-542[表注 11]
(54-55) 541-542 2両
計 33両 1両 4両 3両 2両 500-542 43両
^ 台湾鉄路管理局CT151-CT152
^ 台湾鉄路管理局CT153-CT167
^ 台湾鉄路管理局CT168-CT175
^ 台湾鉄路管理局CT176
^ 台湾鉄路管理局CT177
^ 台湾鉄路管理局CT178-CT181
^ 台湾鉄路管理局CT182-CT184
^ 台湾鉄路管理局CT185-CT187
^ 台湾鉄路管理局CT188
^ 台湾鉄路管理局CT189-CT191
^ 台湾鉄路管理局CT192-CT193
E500形532号機が牽引する列車、1910年代頃
E500形532号機が牽引する列車、1910年代頃
530号機が牽引する急行列車、1930年代頃
530号機が牽引する急行列車、1930年代頃
新店渓の橋梁を渡る529号機、1935年頃
新店渓の橋梁を渡る529号機、1935年頃
E500形が牽引する列車、台北駅、1938-42年頃
E500形が牽引する列車、台北駅、1938-42年頃
苗栗鉄道文物展示館で静態保存される台湾鉄路管理局CT152(旧501)号機、2014年
苗栗鉄道文物展示館で静態保存される台湾鉄路管理局CT152(旧501)号機、2014年
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