嵯峨野トロッコ列車の魅力
保津川の絶景や四季折々の風景を楽しむことができる嵯峨野トロッコ列車、素晴らしい景色や運転士などスタッフのおもてなしの数々。保津峡の渓谷美を眺めながら、爽快な列車旅をお楽しみください。



トロッコ列車で巡る、
四季折々の保津川渓谷の風景
嵯峨野トロッコ列車の車窓からは四季ごとに美しい風景をご覧いただけます。車窓から広がる自然美が心を豊かにし、歴史ある保津川渓谷の風景と共に、四季折々の風情を織り交ぜ、心洗われる特別な旅をお届けします。
「世界の蒸気機関車・鉄道車両」は、産業革命以降の近代化を支えた鉄道史の象徴である蒸気機関車と、それに連なる多様な鉄道車両を体系的に調べるための名称です。蒸気機関車は19世紀初頭にイギリスで誕生し、その後ヨーロッパ、アジア、アメリカなど世界各地へと広まりました。それぞれの地域の気候、地形、産業に合わせて多種多様な形式が生まれ、車両のデザインや機能には文化的・技術的な特色が反映されています。また、旅客用車両、貨物車両、特別列車などの発展も、社会や経済活動の変化と密接に結びついてきました。本調査では、各国を代表する名機や特色ある車両の構造・歴史的背景を明らかにし、鉄道技術の進歩と人々の生活との関わりを総合的に探ります。


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新潟県上越市のえちごトキめき鉄道(トキ鉄)は、上越市東町の「直江津D51(デゴイチ)レールパーク」の営業を、週末中心から連休や夏休みなどに限定する。老朽化している目玉施設「扇形庫(せんけいこ)」は能登半島地震で被害はなかったが、激しく揺さぶられたため安全性に配慮し、営業日と人数を絞り、ガイドが案内する形で見学してもらう。
レールパークは車両基地の一部を一般開放して2021年にオープンし、春から秋...

| 2010/04/29開設 2017/05/03改訂 |
![]() 全国に現存する扇形機関庫 全12か所 |
SL全盛期、全国各地の機関区で見られた扇形機関庫。
転車台を中心に扇の形に広がった機関車庫である扇形機関庫は、 転車台で方向転換させて収容した車両の「ねぐら」であり、運行に備えて点検や修理を行う場として、 全国に数多く建設されました。
しかし、電化やディーゼル化などの無煙化でSLが次第に姿を消すにつれ、 転車台で方向転換をする必要のない車両が増加。
古くは明治期から、大半が大正から戦前にかけて建設されたものであった各地の扇形庫の老朽化も進み、 また車両の点検や修理が矩形庫でも充分対応できる環境となったことから、 扇形機関庫は不要なものとして全国から姿を消していきました。
現在、全国に現存する扇形機関庫は全部で12か所。
現役で使用されているものもあれば、既に役目を終えてひっそりと佇んでいるものもありますが、 いずれも貴重な鉄道遺産・近代化遺産です。
その全12か所について、以下にご紹介します。
▼ 北海道地方 ▼ ■No.1 旧小樽築港機関区手宮分庫 扇形機関庫 2010/04/29開設 ■No.2 旧苗穂機関区(現 苗穂運転所)扇形機関庫 2010/04/29開設 ▼ 東北地方 ▼ ■No.3 旧盛岡機関区荒屋新町支区 扇形機関庫 2010/04/29開設 ■No.4 旧会津若松機関区(現 会津若松運輸区)扇形機関庫 2010/04/29開設 ▼ 中部(甲信越)地方 ▼ ■No.5 旧新津機関区(現 新津運輸区)扇形機関庫 2010/04/29開設 ■No.6 旧直江津機関区(現 直江津運輸区)扇形機関庫 2010/04/29開設 ▼ 中部(東海)地方 ▼ ■No.7 旧遠江二俣機関区(現 天竜浜名湖鉄道 天竜二俣運転区)扇形機関庫 2010/04/29開設 ▼ 近畿地方 ▼ ■No.8 旧梅小路機関区(現 梅小路運転区)扇形機関庫 2017/05/03改訂 ▼ 中国地方 ▼ ■No.9 旧津山機関区(現 津山運転区)扇形機関庫
(このページ下の「back」(戻る)のアイコンをクリックしてご覧下さい。)■No.10 旧米子機関区(現 後藤総合車両所運用検修センター)扇形機関庫 2017/05/03改訂 ▼ 四国地方 ▼ ■No.11 旧宇和島機関区(現 宇和島運転区)扇形機関庫 2010/04/29開設 ▼ 九州地方 ▼ ■No.12 旧豊後森機関区 扇形機関庫 2010/04/29開設
▼ 当コンテンツ開設以降に解体された、今は無き扇形機関庫 ▼ ■ 旧坂町機関区 扇形機関庫 2012/10/29改訂
■当サイト内の文章・画像の無断転載の禁止について(注意)■(2011/03/04掲載)
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■当サイト管理人からのお願い(注意)■
上記の扇形機関庫及び転車台については、全て管理人自らが訪れ、撮影・調査したものです。
当該扇形庫・転車台の状況・状態等は管理人が訪れて確認した時点のものであり、 それ以降、状況・状態等が変化している場合がありますので、ご注意下さい。
扇形庫の奥行の数値については、計測器による計測ではない箇所があり、 そのため誤差が生じている場合があります。
あくまで概略値として捉えて頂きますようお願いします。
また、上記の扇形庫・転車台は、見学が可能な個所と、見学や敷地への立ち入りが禁止されている個所があります。
最近では、扇形機関庫などの施設等が珍しいということで訪れる方も増えてきていますが、 無断立入などの行為は絶対に行わないで下さい。
見学可能な箇所での見学についても、付近の住民の方や現場の方のご迷惑にならないよう、節度を守って見るようにしましょう。
なお、当サイト内の文章や画像などの無断引用は固くお断り致します。
こちらのURLの動画にみられそうです。
https://youtu.be/xCAPA1MZiTk?si=94cbDX60og9nu_Wg
国鉄70形蒸気機関車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』引用編集)
70形は、かつて日本国有鉄道の前身である鉄道省に在籍したタンク式蒸気機関車である。
概要[編集]
本形式は、新宮鉄道(現在の紀勢本線の一部)の3で、1934年(昭和9年)7月1日付けで同鉄道が国有化されたことにより、鉄道省籍を得たものである。国有化に際して、70形(70)と改番された。
1912年(明治45年)、ドイツのアーノルト・ユンク(ドイツ語版)で1両(製造番号1790)が製造された車軸配置0-4-0(B)の飽和式・2気筒単式のウェルタンク式機関車である。ユンク製の蒸気機関車は日本では例が少なく、総数わずかに8両、国有鉄道と縁のあったものは、他に中越鉄道の6(後の鉄道省1025形)があるにすぎない。デザインラインは、機能本位かつ端正で、ランボード中央部に設けられた給水用の漏斗が特徴的である。
また、新宮鉄道は他の鉄道との連絡が全くない孤立路線であったため、鉄道省が連結器を全面的に自動連結器に交換した後も、螺旋式連結器装備で終始した。国有化後は、前述のとおり鉄道省の形式番号が与えられたが、現車にこの番号が標記されることはなく、1936年(昭和11年)に廃車となった。
主要諸元[編集]
全長 : 6,044mm
全高 : 3,096mm
軌間 : 1,067mm
車軸配置 : 0-4-0(B)
動輪直径 : 910mm
弁装置 : ワルシャート式
シリンダー(直径×行程) : 241mm×361mm(国鉄公表値。実際には240mm×360mmだったはず)
ボイラー圧力 : 12.0kg/cm2
火格子面積 : 0.46m2
全伝熱面積 : 19.4m2
煙管蒸発伝熱面積 : 17.2m2
火室蒸発伝熱面積 : 2.2m2
小煙管(直径×長サ×数) : 38mm×2,286mm×77本
機関車運転整備重量 : 13.21t
機関車空車重量 : 11.33t
機関車動輪上重量(運転整備時) : 13.21t
機関車動輪軸重(第1動輪上) : 6.6t
水タンク容量 : 1.8m3
燃料積載量 : 0.58t
機関車性能
シリンダ引張力 (0.85P) : 2,320kg
ブレーキ方式 : 手ブレーキ、蒸気ブレーキ
参考文献[編集]
臼井茂信「国鉄蒸気機関車小史」 1956年 鉄道図書刊行会
臼井茂信「日本蒸気機関車形式図集成 1」 1968年 誠文堂新光社
臼井茂信「機関車の系譜図 2」 1973年 交友社
金田茂裕「形式別 国鉄の蒸気機関車 I」 1984年 エリエイ出版部/プレス・アイゼンバーン
隠す
表話編歴
新宮鉄道の車両
蒸気機関車
1, 2(鉄道省1235形) - 3(鉄道省70形) - 4(鉄道省1240形) - 5(鉄道省1245形) - 6(鉄道省1250形) - 7(鉄道省1255形)
気動車
キハ201 - 205
客車
ハ14 - 16 → ハ24 - 26
カテゴリ: 日本国有鉄道の蒸気機関車新宮鉄道の鉄道車両アーノルト・ユンク製の蒸気機関車1912年製の鉄道車両車輪配置0-4-0の機関車飽和式蒸気機関車単式機関車
最終更新 2023年12月15日 (金) 02:43 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
国鉄C53形蒸気機関車
ツール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』引用編集)
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C53形蒸気機関車
C53 10
C53 10
基本情報
運用者 鉄道省 → 日本国有鉄道
製造所 汽車製造、川崎車輛
製造番号 別記
製造年 1928年 - 1930年
製造数 97両
引退 1950年
投入先 東海道本線、山陽本線、呉線(全線開通後)
主要諸元
軸配置 2C1 (4-6-2、パシフィック)
軌間 1,067 mm
全長 20,625 mm
全高 4,000 mm
機関車重量 80.98 t
動輪上重量 46.27 t
総重量 127.25 t
固定軸距 3,980 mm
動輪径 1,750 mm
軸重 15.44 t(第3動輪)
シリンダ数 単式3気筒
シリンダ
(直径×行程) 450 mm×660 mm
弁装置 ワルシャート式(左右)
グレズリー式(中央)
ボイラー圧力 14.0 kg/cm2 (1.373 MPa; 199.1 psi)
大煙管
(直径×長さ×数) 140 mm×5,500 mm×28本
小煙管
(直径×長さ×数) 57 mm×5,500 mm×88本
火格子面積 3.25 m2
過熱伝熱面積 64.4 m2
全蒸発伝熱面積 220.5 m2
煙管蒸発伝熱面積 140.9 m2
火室蒸発伝熱面積 13.5 m2
燃料 石炭
燃料搭載量 12.00 t
水タンク容量 17.0 m3
制動装置 自車:空気ブレーキ
編成:自動空気ブレーキ
出力 1,250 PS
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C53形蒸気機関車(C53がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省がアメリカから輸入したC52形を解析の上、国産化した3シリンダー型のテンダー式蒸気機関車である。愛称はシゴサン。幹線での急行列車牽引を主な用途とした旅客用蒸気機関車であった。
製造[編集]
汽車製造、川崎車輛の2社により、1928年から1929年の間に97両が量産された。その状況は次のとおりである。
1928年:C53 1 - 53(53両)
1929年:C53 54 - 97(44両)
汽車製造(47両)
C53 1 - 16(製造番号996 - 1011)
C53 43 - 53(製造番号1038 - 1049)
C53 57 - 59(製造番号1076 - 1078)
C53 71 - 80(製造番号1093 - 1097, 1104 - 1108)
C53 91 - 97(製造番号1152 - 1158)
川崎車輛(50両)
C53 17 - 42(製造番号1241 - 1247, 1254 - 1272)
C53 54 - 56(製造番号1303 - 1305)
C53 60 - 70(製造番号1322 - 1332)
C53 81 - 90(製造番号1375 - 1384)
なお、本形式は製造中において以下に代表される細部の変更が行われた。
砂箱の溶接構造化(C53 34以降、1929年製のC53 54からは外形も変更)
運転室上部天窓の増設と加減リンク受の形状変更(C53 43以降)
シリンダ側面の蒸気室覗き穴を大型化(C53 45以降)
煙室前面に手摺の増設(C53 54以降の川崎車輛製)
汽笛取り付け位置を火室上部からドーム右側面へ、排障器位置を先台車から前部台枠に(C53 57以降)
煙室前面の手摺を煙室扉から煙室外周へ(C53 57以降の汽車製造製)
前デッキ前面の垂直部を一体のものから4分割した引戸に変更(C53 60以降)
開発の背景[編集]
大正末期から鋼製客車の出現によって客車の重量が10%ほど増加し特別急行列車の速度を維持するには18900形(後のC51形)では出力不足であり[注 1]、このため狭軌(1067mm軌間)でこれ以上の輸送力増加に対応するには3シリンダー機を導入するしかないと考えられた[2][注 2]。
これ以前に1924年(大正13年)頃に輸送力増大を見込んで3シリンダー機関車の案がいくつか挙げられていた。「機70形」「機78-2形」「機80形」という3形式の断片的なデータが残っており、それぞれ以下のような形式であった。
最初期の3シリンダー機計画案[3]
形式名 軸配置 最大軸重 動輪径 最高速度 運転整備総重量
機70形 2C1(4-6-2) 15.6t 1750mm 100㎞/h 130.0t
機78-2形 2D1(4-8-2) 15.0t 1600mm ? 134.95t[注 3]
機80形 2C1(4-6-2) 17.8t 1600mm 95㎞/h 138.4t
これらのうち機70形は急行旅客用で後にC53形を実際に作る時に(大きさや性能の)原型にしたもの、後者2つは重量急行旅客用だが、3シリンダーそのものをまったく扱ったことがない[注 4]当時は中央シリンダー取付位置などは未定のまま[3]で、実際にアメリカから3シリンダーのパシフィック機8200形(後のC52形)を試験的に輸入したところボイラ効率・機械効率が悪いと判断されたので、これらの問題を解消すべくD50形並のボイラーとC51形並の1750mm径動輪を持つ3シリンダー機関車として1928年(昭和3年)から製造された[4]。
この時、シリンダブロック周辺など3シリンダー機の特色となる部分は朝倉希一による「大学を出たばかりの頭の柔らかい新人に任せよう」との判断から、当時新進の島秀雄が研究を担当した[要出典]。
シリンダー要素以外にもボイラ径がC51形より太くなったことでボイラ中心位置が上がったため、重心を抑えるように設計が配慮されており、鋳物製の化粧煙突から軽いパイプ煙突に変更、給水加熱器を前方台枠下に吊り、先従輪は940mmだったものを860mmにして台枠を低め、砂箱をボイラー上から歩み板の上に変更されるなどの配慮がされている[5]。
グレズリー式弁装置[編集]
本形式に採用されたグレズリー式連動弁装置[注 5]は、ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道 (LNER) の技師長 (Chief Mechanic Engineer:CME) であったナイジェル・グレズリー卿が考案した、単式3シリンダー機関車のための弁装置である。
これは通常のワルシャート式弁装置を基本として、その左右のピストン弁の尻棒の先端に連動大テコ(2 to 1 Lever:右側弁の尻棒と連動小テコの中央部に設けられた支点とを結び、中央部で台枠とピン結合される)・連動小テコ(Equal Lever:中央弁の尻棒と左側弁の尻棒を結ぶ)の2つのテコの働きにより、左右のシリンダーのバルブタイミングから差動合成で台枠中央部に設けられたシリンダーのバルブタイミングを生成する、簡潔かつ巧妙な機構である。
この方式を使えば、それぞれのシリンダーに独立した弁があるタイプの3シリンダー式に対し、中央シリンダーのロッド・クランク横のバルブギアを省略できるので整備の際に下にもぐる手間が省けるが、ベアリングの摩耗などでわずかでもレバーにガタが生じると中央シリンダーの動きがずれて主動軸クランクに損傷が起きるという問題があった。そのため、ウォーバッシュ鉄道クラスK5では納品直後に中央シリンダーのメインロッド関連で不具合を引き起こし[7]、ニュージーランドのNZR 98もグレズリー式連動弁装置が問題を引き起こし配備から9年でCLASS G(4-6-2)へ部品提供のため解体されている[8]。CLASS G(4-6-2)もグレズリー式連動弁装置を引き続き採用したこともあり欠点が多く2シリンダー化も提案されたが費用面の問題で車齢19年で廃車された[9]。発祥地のイギリスでも第二次世界大戦中にこの問題が発生しており[10]、ロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道 (LMS)の3シリンダー機関車の6倍に及ぶ故障が起きていた[11]。グレズリー式連動弁装置はリンクやピンの数が多すぎて、摩耗やレバーのたわみの影響を受けやすかっただけでなく、「様々な機能的欠点」を抱えていると多くの人物が指摘しており設計自体に欠陥を抱えていた[12]。
本機においては正式に特許実施権を獲得していたアメリカン・ロコモティブ(アルコ)で設計・製造したC52形や満鉄のミカニ形(日本で製造したものもあるがアメリカ製造車と同設計)と違い、グレズリー弁関係のノウハウがない状態で設計を変えてあるので以下のような点で問題が生じている。
軽量化を優先して連動テコを細く[注 6]、さらに上下方向に穴を8つ開けておいたため高速で動作する際の変形を招いた。
クランク軸にニッケル・クローム鋼を使用した所、発熱が大きくなった[注 7]
給油機構がうまくいっておらず、上記の発熱もあって潤滑不足による中央クランクの焼きつきが問題になった[注 8]。
リンクの動作中心をピストン弁中心に合わせるのではなく、リンクの回転円の外端をピストン弁中心に合わせて設計されている。
国鉄側では中央シリンダーの不具合について台枠との取り付けが悪い(弱い)と認識していた形跡があり、国鉄によって編集された『鉄道辞典』では「C53形機関車」の項で「この部(注:主台枠の中央シリンダーの取り付け部分)に亀裂が発生して困った」と記述があるほか[14]、「3シリンダ機関車」や「C59形機関車」でも中央シリンダーと台枠の取り付けに関して記載がある[15]。
鉄道省唯一の日本製3シリンダー機[編集]
C53の第3シリンダー
(写真中央)
石山駅構内で速度超過により脱線したC53 30(1930年4月25日、東海道線石山駅急行列車脱線転覆事故)
C53形は予期通りの性能を発揮したので97両量産され、東海道本線・山陽本線において特急・急行列車牽引用の主力として運用された[14]。設計主任は伊東三枝(国鉄DC11形ディーゼル機関車の設計製造監督)。
しかし、構造が複雑で部品点数が多いため整備検修側からは嫌われた。前述の通り設計そのものもシリンダー周りを担当した島秀雄をはじめとして3シリンダー機構の理解が不十分であり、軽量化を重視しすぎたことで枠の剛性不足による亀裂多発、連動テコの変形による第3シリンダーの動作不良頻発と起動不能などといった重大なトラブルの原因となった。なお、台枠の亀裂多発はLNER A1形・A3形蒸気機関車でも軽量のために穴を設けたことで問題化していた[16]。第3シリンダーの動作不良頻発はアメリカでも納品直後に発生しており[17]、起動不能はオリジナル設計でも発生すると羅須地人鉄道協会の持つグレズリー式機関車で判明している[要出典]。本家であるLNERは、さまざまな欠陥を持つグレズリー式機関車に乗務させる人員を1人1人選別して1台の機関車に専属させる運用で対処したが[18]、当時の鉄道省は1台の機関車に乗員を専属させずに運転が可能な体制に移行しつつあり、旧態依然としたLNERのやり方と相性が悪かった[19]。
前述の改悪に加え、軌間の狭さに由来する弁装置周りの余裕のなさが致命的で、特にメタル焼けが多発した第3シリンダー主連棒ビッグエンドへの注油(給脂)には想像を絶する困難[注 9] が伴うなど、運用面での問題も発生した。
このため、お召列車や運転開始当初の超特急“燕”では、信頼性の面からC51形が使用されている[注 10]。なお、燕の名古屋以西の牽引機は程なくC53形が担当することとなった(沼津電化後は沼津以西をC53形が担当)。
それでも戦前の時点では、鉄道省は本機を主として名古屋・明石・下関の3機関区を中心に運用させた。名古屋機関区では、東海道本線国府津・沼津間電化後に、従来浜松機関区が受け持っていた上り「富士」と下り「櫻」を除く全特急列車で沼津 - 名古屋間を担当し、「櫻」は名古屋 - 京都間の上下列車も牽引していた。明石機関区は、配属両数が10両前後と少ないながら、担当仕業のほとんどが優等列車牽引で中には名古屋 - 神戸間のロングラン運用が存在したにもかかわらず、1941年以降のC59形への置き換えまで大過なく本形式を運用していた。運用維持のために、各機関区の整備陣では以下のような対策も取られた[21][22]。
機関区にはグレズリー式弁装置調整のため専門の技工長を置き、検査後の本線試運転でも技工を同乗させた。
浜松工場では、名古屋機関区からの要望により出場後は走行距離1万kmまでは分解整備せず運用可能なよう検査や確認を緻密に行い、炭水車には「10000粁限定」標記を大書した。1937年以降は大規模整備「標修車」に切り替えられ、浜松工場で研究された整備技術やC53形以降に登場した新形機関車の経験が活用された[注 11]。
大阪鉄道局では1930年の明石機関庫創設時に、梅小路機関庫から最も状態のよい12両を転属させ、その後の転配属においても優秀機を配属させる集中配備策を取った[注 12]。
しかし、以後は鉄道省、国鉄を通じ、3シリンダー機関車の製造はおろか設計すらなくなり、日本の蒸気機関車は実用性ではるかに優れた2シリンダー機関車のみに限定されることになった[注 13]。
もっとも、適切に調整・保守された本形式は、等間隔のタイミングで各シリンダが動作する3シリンダーゆえに振動が少なく、広くて快適な運転台、蒸気上がりの良いボイラ、牽引力の強さから、乗務員の評価と人気は高かったという。後続のC59形やC62形より乗り心地が良かったと伝えられている[注 14]。
改造[編集]
C52形の使用時、煙室の蓋を開けて清掃中にシンダ(煤)がグレズリー式弁装置に入る問題が発生したのでそれを防ぐために前デッキに鉄製のエプロンを追加で取り付けていた[注 15]。これに対し、本形式は最初からこの鉄エプロンが正面だけでなく側面まで覆っていた、しかしこれは整備上の不便から短期間で撤去され前面のみとなり、こちらが標準スタイルになっている[25]。運用開始直後、勾配区間の走行時やブレーキ時に蒸気溜内部に水が入る問題が起きた。水はシリンダー内で膨張しないため出力が得られないばかりか、万が一高速運転中に大量に流入してドレンが間に合わなかった場合にはウォーターハンマーを起こすため、対策として蒸気溜のドーム内部に通風管を設けたが、C53 93は試験的にドームの高さを増した上でドーム自体の位置を後方に移す改造をおこなっている。
第二動輪のクランク軸は当初動軸一体の鍛造品であったが強度や工作上の観点から組立式に変更、ピストン体やクロスヘッド、内側滑り棒といった箇所も強度の問題から順次改造された。また、1930年代半ば以降は検修上の問題から一部の初期製造車で排障器を移設、蒸気室覗き穴の拡大や前デッキ垂直部を4分割引戸として後期製造車と取り扱いを共通化したほか、C53 88は試験的に二段に折れていた前デッキ傾斜部分を一面の開戸に変更した。
昭和初期には排煙効果を高めるためC51形と同じく煙突上部や煙室周囲に各種の排煙装置を取り付ける試みがなされたものの、除煙板が良好だったので1931年頃から取り付けが始まり[26]、他の排煙装置のものも1933年以降は原型に戻されている。除煙板の形状は名古屋・大阪・門司(1935年以降は広島鉄道局に移管)の各鉄道局により長さや高さが若干異なるものが採用された。名古屋・門司・広島が採用した除煙板は大阪のものより基本的に大型である。また、大阪局所属のC53 47はC51形の一部でも採用された前縁部が開閉できる除煙板を備えたほか、門司・広島局所属車では煙突頂部を若干延長していた。
このほか、名古屋・大阪所属車の一部には特急・急行列車の長距離運用に備え炭水車を標準的な12-17形からD50形初期車が使用していた20立方米形に振り替えたものが存在した[注 16]。本形式が使用した20立方米形炭水車は石炭搭載量を増やすため炭庫の高さや長さを増す改造を施しており、外見的特徴の一つとなった。
流線型化改造[編集]
上り「つばめ」回送列車を牽引するC53 43
1934年12月9日 大久保 - 明石間にて撮影
1934年11月には当時の世界的な流線型ブームに乗り、梅小路機関区所属のC53 43が鷹取工場における20日の突貫工事で試験的に流線型に改造された。煙室前部を斜めに切り、運転室は密閉式のものに取替え、車体全体と炭水車上部を流線型の鉄板で覆い、機関車本体と炭水車の隙間は幌で覆った。さらに、露出した汽笛にも流線型のキセを装着する徹底ぶりであった。これらの改造により他機とは全く異なる外観を呈した。塗色も完成直後は海老茶色で、試運転前に黒に塗り替えられたかのように新聞に書かれたが、当初黒以外の案があって採用されなかっただけともされる[注 17]。
流線型ブームでは空気抵抗の軽減効果が多く標榜されたが、当時の100km/hに満たない運転速度では空気抵抗が列車の走行に与える影響はごく小さなものであった。それよりも列車の周囲の空気の流れを改善し、煙が列車に絡みつくのを防ぐとともに、走行中に対向列車や駅ホーム上の乗客に及ぼす風圧の軽減を目標としたという[27]。
完成後の11月24日には鷹取工場構内で公式試運転を実施し、同年12月1日から1937年7月1日のダイヤ改正で梅小路機関区のC53形が特急運用から撤退するまでの間上り「燕」の神戸 - 名古屋間(明石操車場 - 神戸間の回送列車も牽引)、下り「富士」の名古屋 - 大阪間を担当したほか機関車回送を兼ねて急行17列車の京都 - 神戸間や普通列車も牽引した[28]。
1935年(昭和10年)6月には東海道本線の原 - 鈴川(現・吉原)間でC53 43と通常型のC53 55を使った性能試験がおこなわれ、性能試験車オヤ6650と控車スハフ34445を連結した状態で100km/h前後まで加速して走行した際の機関車状態を計測した[29]。この試験成績が良好だったため、C53形を全車流線型に改造するため改造費1両3000円を計上、昭和10年度として10両改造することが内定した[30] が実現しなかった。「燕」の客車も展望車の後部を流線形にし、貫通幌を車体幅一杯まで2400ミリ広げるなどして空気抵抗を3割減らす改造に着手するという計画が報道されたが[31] 、これも実現していない。
運転室内は幌で覆われているため室内の騒音は軽減されたが、その反面、熱がこもり、室内温度が高温になりやすかった。また整備点検には他のC53形よりも約180%多くの時間を要したという[32]。特急運用から外れた直後には炭水車上部のカバーを撤去、戦時中には車体下部のカバーも撤去され、開閉に手間を要した煙室扉にはジャッキを取り付けた。
側面
側面
後部、テンダーに給水中
後部、テンダーに給水中
国鉄C54形蒸気機関車
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C54形蒸気機関車
C54 13
基本情報
運用者 鉄道省 → 日本国有鉄道
製造所 汽車製造、川崎車輛
製造年 1931年
製造数 17両
引退 1963年
主要諸元
軸配置 2C1
軌間 1,067 mm
全長 20,375 mm
全高 3,945 mm
機関車重量 65.30 t
総重量 114.30 t
動輪径 1,750 mm
軸重 13.42 t
シリンダ数 単式2気筒
シリンダ
(直径×行程) 510 mm × 660 mm
弁装置 ワルシャート式
ボイラー圧力 14.0 kg/cm2
大煙管
(直径×長さ×数) 140 mm×5,500 mm×18本
小煙管
(直径×長さ×数) 57 mm×5,500 mm×84本
火格子面積 2.53 m2
全伝熱面積 167.8 m2
過熱伝熱面積 41.4 m2
煙管蒸発伝熱面積 115.0 m2
火室蒸発伝熱面積 11.4 m2
燃料 石炭
制動装置 自動空気ブレーキ
出力 1,211 PS
シリンダ引張力 11,680 kg
粘着引張力 10,065 kg
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C54形蒸気機関車(C54がたじょうききかんしゃ)は、1931年(昭和6年)に製造された日本国有鉄道(製造時は鉄道省)の亜幹線旅客列車用中型テンダー式蒸気機関車である。
誕生の背景[編集]
1928年(昭和3年)で製造終了となったC51形の後継機であるC53形は、自重・軸重ともに大きく[注 1]、東海道本線や山陽本線といった幹線にしか投入できなかった。
また、前世代の幹線用機関車であるC51形も動軸重が乙線前提[注 2]で運用可能線区に制限があり、8620形などの在来機では牽引力が足りず輸送力が不足するものの、C51形の導入が困難な丙線規格(軸重14 t)の亜幹線で輸送力を増強するには、軌道強化により丙線から乙線へ規格向上を実施して軸重15 tクラスの強力機の投入を可能とするか、さもなくばC51形と同等の牽引力を備え、なおかつ動軸重を1ランク落として14 t以下に収め、丙線規格の路線でも運用可能とした軽量級パシフィック機を新規開発し投入する必要があった。
もっとも、本形式が設計された1931年(昭和6年)前後の時点では昭和恐慌のため国家財政は極めて深刻な状況にあり、前者の手法を採って全国に張り巡らされた亜幹線各線の線路規格を底上げするのは、新線の建設に当たって丙線よりさらに低規格な簡易線規格[注 3]を制定せざるを得ないほどに厳しい財政状態の下ではあまりに非現実的であった。そこで後者の手法が選択され、丙線で運用可能なC51形の後継・派生機種が新製投入されることとなった。
かくしてC51形を設計した朝倉希一の直弟子である島秀雄を設計主任として、本形式が開発された。
構造[編集]
C51形の基本構成をほぼそのまま踏襲する。したがって、3缶胴構成で蒸気ドームを第1缶胴に載せ、1軸従台車で支持される広火室を組み合わせたストレート形煙管式ボイラーを備える、軸配置4-6-2(ホワイト式)あるいは2C1(日本式)の過熱式単式2気筒テンダー機関車である。
本形式が設計された当時は、冶金技術の向上等によりボイラー性能も向上した時期で、その成果を採用し使用蒸気圧力を13 kg/cm2から14 kg/cm2へ向上した。その結果、C51形と同等性能としてもシリンダー径を縮小することが可能となり、併せて全体的に軽量化されている。もっとも、ボイラーの各部寸法そのものはC51形のそれを踏襲しており、火床面積や煙管寸法・本数などは全てC51形と同一値となっている。一方、C51形での長期試験の成果を反映し、日本の機関車としては初めて除煙板(デフレクター)を新製当初から装備するようになっている。
動輪径はC51形やC53形と共通の1,750 mmである。もっとも、C51形で折損・タイヤ変形などのトラブルがあった車輪については、各車輪のスポーク本数を17本あるいは18本から19本へ増加[注 4]し、強度向上が図られている。
C51形では本省式給水加熱装置が新造後に後付されたため、ボイラー煙室部直上の煙突後部に搭載されていたが、これは保守上点検に不便であった。このため、D50形などと同様にフロントデッキに給水加熱装置本体が搭載されることになったが、端梁から前へ突き出すような位置関係となった。また、煙突もC51形の化粧煙突ではなく、テーパー付きの簡素なパイプ煙突となった。このように、C51形と比較してその基本仕様は概ね踏襲されているものの、除煙板の追加と併せて外観面ではC51形とは大きく異なる。もっとも、続くC55形以降と比較すればリベットが目立つことや、C51形よりも間隔が狭められたものの蒸気ドームと砂箱が独立したキセに収められていること、それにC53形やD50形と共通設計の大きなキャブを取り付けていることもあって、清新な造形と古典的な造形が混在する、いかにも過渡的なデザインとなっている。なお、汽笛は従来の3室式から5室式に変更されており、音の面では新世代を印象づける物となっていた。
テンダーはC53形と共通で石炭12 t、水17 m3を積載可能な12-17形を連結する。
台枠は既に9900形(D50形)やC50形、それにC53形などで強靱な90 mm厚圧延鋼材による棒台枠の採用が始まっていたにもかかわらず、C51形の板台枠を踏襲している。本形式においては設計段階で軽量化を目的に無理をした結果、この台枠に強度不足の箇所があり[注 5]、後年台枠亀裂で車両寿命を著しく縮める一因となった。
製造[編集]
汽車製造・川崎車輛の2社により、1931年(昭和6年)に17両が製造された。その状況は次のとおりである。
川崎車輛(11両):C54 1 - 8, 15 - 17(製造番号1397 - 1404, 1406 - 1408)
汽車製造(6両):C54 9 - 14(製造番号1168 - 1173)
しかし、この初回生産分の車両が各地に配置され就役すると空転多発の癖[注 6]や牽引力の不足を露呈し、乗務員から不評が殺到する事態を招いた。その根本的な原因は、過度の軽量化による動軸重の不足と、それにともなう粘着力の不足であったとされる。さらに、丙線向けに軽量化を行ったにもかかわらず、実際には軸重の重いC51形と共通という、軽量化の意味がない不可解な運用をされたことが大きい。
本形式は1930(昭和5)年度に発注された17両のみで製造終了となった。そのため、亜幹線向け旅客用蒸気機関車の増備は日本経済が昭和恐慌以前の水準まで回復した1935年以降、本形式の失敗を教訓として全面的に改設計したC55形[注 7]が後継形式として生産されることとなった。
運用[編集]
新造時には、青森・仙台・秋田・宇都宮・高崎・水戸と東北本線・奥羽本線系統を中心に担当する東日本の各機関区と、当時北陸本線を担当していた西日本の梅小路機関区に分散配置され、C51形とともに優等列車を中心とする運用に充当されたが、前述のような経緯から1935年(昭和10年)以降は、全車が福知山機関区に集中配置され、戦後まで山陰本線・福知山線・播但線で使用された。
もっとも、ここでも少数配置ゆえの保守の困難さや、国鉄制式蒸機では本機のみに採用された米国流の板式缶胴受が走行中の振動で亀裂を生じやすかったこと、あるいは主台枠の強度不足による亀裂が頻発したことといった構造面での問題などによって早期に廃車対象となり、状態不良で長期休車を経て1948年(昭和23年)1月28日付で除籍されたC54 13を皮切りに、1950年代前半の段階で既に半数以上の9両が車齢25年を待たずして廃車され、それ以外も福知山鉄道管理局管内で長期休車状態となっていた。
しかし、この時期の国鉄では蒸気機関車の新製増備が終了していた[注 8]一方、未だ本線用ディーゼル機関車は開発されておらず、全国的に旅客列車牽引用として軽量級パシフィック機の旺盛な需要が存在した。それゆえ、C55形やC57形、そればかりか老朽化したC51形ですら引く手あまた[注 9]で、このクラスの機関車は慢性的に不足状態を呈していた。福知山区では1952年、本形式の保守難で代機としてC57形の転配を求めたが、要望が通らず、1953年3月から5月にかけて秋田機関区・横手機関区からの転配で、逆に本形式よりも状態の悪いC51 153・156・260を押し付けられて、ますます運用に窮することになった[1]。
そこで、1954年(昭和29年)1月に当時国鉄本社の運転局車務課で機関車運用を決定する立場の総括補佐の地位にあった西尾源太郎が福知山鉄道管理局長で機関車に精通していた今村一郎と協議し、休車中の本形式各車の中から状態良好車を選出、鷹取工場で再整備・修繕して運用に充当することが決定された。1957年までに残っていた8両が順次休車から復活して延命、再び山陰本線・福知山線・播但線で運用されることとなった。これに伴い、京都駅や大阪駅にも旅客列車牽引で直通している。1957年復活組のC54 5・6・8・12は宮津線に投入しての8620形代替が目論まれたが、同線での試走の結果、レール横圧が大きすぎることから運用を断念、福知山区所属のまま、山陰本線で1953年転配組の老朽C51形廃車目的で運用された。
もっとも、これら8両についても1959年(昭和34年)に播但線で起きた脱線事故でC54 5が脱線大破して除籍となり、C54 12も1960年(昭和35年)11月15日付で除籍された。さらに残った6両は浜田機関区に転出して山陰本線西部地区で使用されたものの、無煙化の進展で余剰となると状態の良いC51形よりも早く淘汰の対象となり[注 10]、北陸本線の電化工事が金沢まで到達した1963年(昭和38年)に、同線配置のC57形が余剰となって浜田機関区へ順次転属となったことなどから、これらと代替される形で同年10月3日に最後まで残った6・8・10・11・15・17が一斉に廃車されて形式消滅となった。
全体の製造両数が17両と少なく、性能面でも芳しくなく、また、全車廃車の時期が1963年(昭和38年)と比較的早い時期であったことから、廃車後は全て解体処分されており、保存機は皆無である。これは日本国鉄で第二次世界大戦後まで運用された日本製の新造制式蒸気機関車形式としては唯一で、現役時ばかりか廃車後までも不遇であった。そうした境遇から、鉄道書籍において本形式が語られる際には「悲運の」(参考文献参照)「薄幸の」[2]といった悲観的・同情的な形容をされることが多い。
保存機[編集]
前述の通り譲渡・払い下げ・保存されたものは皆無であるが、C54 6・17のナンバープレートが現存する。大津市・遊びの森SL公園で保存のC57 128には、C54 4の先輪が使用されている。
C54 6:鳥取県米子市 - 「米子れいるろうど館」 ※同施設は2006年(平成18年)3月閉鎖、その後は消息不明
C54 17:大阪府大阪市 - 「共永興業株式会社」
形式番号にまつわるジンクス[編集]
国鉄において“54”が「忌み数」だとされることがあるが、これはDD54形・ED54形・EF54形など“54”のつく形式の機関車が同時期に製造された他形式と比べ、成績が不調であったり保守の問題から早期に廃車される傾向[注 11]があったからだとされる。このC54形もまたその例として取り上げられる
国鉄C55形蒸気機関車
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C55形蒸気機関車
保存中のC55 1(梅小路蒸気機関車館、2006年)
保存中のC55 1(梅小路蒸気機関車館、2006年)
基本情報
運用者 鉄道省 → 日本国有鉄道
製造所 川崎車輛、汽車製造、三菱重工業、日立製作所
製造年 1935年 - 1937年
製造数 62両
引退 1975年
愛称 シゴゴ
主要諸元
軸配置 2C1
軌間 1,067 mm
全長 20,280 mm
全高 3,945 mm
機関車重量 66.04 t
総重量 113.04 t
動輪径 1,750 mm
軸重 13.62 t(第3動輪)
シリンダ数 単式2気筒
シリンダ
(直径×行程) 510 mm × 660 mm
弁装置 ワルシャート式
ボイラー圧力 14 kg/cm2 (1.373 MPa; 199.1 psi)
大煙管
(直径×長さ×数) 140 mm×5,500 mm×18本
小煙管
(直径×長さ×数) 57 mm×5,500 mm×84本
火格子面積 2.53 m2
全伝熱面積 168.8 m2
過熱伝熱面積 41.4 m2
煙管蒸発伝熱面積 115.0 m2
火室蒸発伝熱面積 11.4 m2
燃料 石炭
制動装置 自動空気ブレーキ
最高速度 100 km/h
最大出力 1,211 PS
定格出力 1,040 PS
シリンダ引張力 11,680 kg
粘着引張力 10,180 kg
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C55形蒸気機関車(C55がたじょうきかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が設計した亜幹線旅客列車用中型テンダー式蒸気機関車の一つである。愛称はシゴゴ。
誕生の背景[編集]
1930年代に入ると、亜幹線の旅客輸送力強化を目的として、丙線規格の路線に入線可能なC51形の後継機種の製造が計画された。しかし、最初に設計されたC54形(1931年〈昭和6年〉)は、ボイラー圧力の高圧化と過度の軽量化に起因し空転を頻発するなど、乗務員からの不評が殺到し、わずか17両で生産が打ち切られていた。
そこで、丙線規格の各線で不足する旅客列車用機関車を補うべく設計されたのが本形式である。本形式は、C54形の失敗を教訓としつつ棒台枠を採用するなど、より新しい技術を取り入れたものであった。
本形式は内地向けには1935年(昭和10年)に製造が開始され、3次に分けて合計62両が製造された。
C55 63以降も一部設計変更の上で本形式が増備される計画であったが、当該設計変更が多岐に渡ったことから、C55 63に相当するもの以降には、C57形という新形式が付与された。
製造[編集]
本形式は、川崎車輛、汽車製造会社、三菱重工業、日立製作所の4社により、1935年(昭和10年)から1937年(昭和12年)までの間に62両が製造された。上述のように63両目以降C57形の新形式が与えられることとなり、C55形としての新造は62両で打ち切られた。
製造年ごとの番号および両数は、次のとおりである。
1935年(1次形): 1 - 19(19両)
1936年(2次形): 20 - 40(21両)
1937年(3次形): 41 - 62(22両)
製造会社別の番号と両数は次のとおりである。
川崎車輛(39両)
C55 1 - 3(製造番号1538 - 1540)
C55 10 - 18(製造番号1541・1550・1576 - 1578・1584 - 1587)
C55 21 - 33(製造番号1628 - 1640)
C55 41 - 48(製造番号1754 - 1761)
C55 55 - 60(製造番号1763 - 1768)
汽車製造(11両)
C55 4 - 7(製造番号1281 - 1284)
C55 20(製造番号1336)
C55 49 - 52(製造番号1457 - 1460)
C55 61・62(製造番号1461・1462)
日立製作所(10両)
C55 8・9(製造番号620・621)
C55 19(製造番号687)
C55 34 - 40(製造番号709 - 715)
三菱重工業(2両)
C55 53・54(製造番号200・201)
構造[編集]
本形式の基本構造は、代替・増備対象であるC51形やC54形の基本構成を踏襲している。
このため、3缶胴構成の缶胴部と1軸従台車で支持される広火室(英語版)を組み合わせたストレート形煙管式ボイラーを備え、軸配置を4-6-2(ホワイト式)あるいは2C1(日本式)とした、軽量級の過熱式単式2気筒テンダー機関車となっている。
ただし、ボイラーについては強力な自動空気ブレーキの採用の結果、下り勾配走行中に急ブレーキをかけた際に水面傾斜が原因で蒸気ドーム内に湯が入り込むというトラブルが発生したことから、C51形やC54形では第1缶胴部に置かれていた蒸気ドームの設置位置が変更され、本形式では第2缶胴部に置かれるようになった。また、これにあわせて従来は第二缶胴部中央上に置かれていた砂箱が本形式では蒸気ドーム直前へ移設され、両者が一体のカバーで覆われた[注 1]。本形式の外観は、電気溶接技術の進歩を受けて溶接工法の採用部位を大幅に拡大し、リベットを減少させるとともに多くの部分に直線基調のディテールを採ったことと併せて、古典的なC51形に比して格段にモダナイズされた。
本形式のボイラー圧力やシリンダ寸法などはC54形のそれをそのまま踏襲しており、各動軸の軸重を丙線規格の許容する範囲内で増大させることで粘着性能を改善し、空転対策としている。
C55形の動輪部分
本形式の動輪はC51形やC54形と同様に直径1,750 mmのスポーク動輪であるが、それらの形式で動輪強度の不足に起因するスポーク割損やタイヤ部変形が多発して問題となっていた[注 2]ことから、本形式では新設計の補強付きスポーク動輪が採用された。
鋳鋼製の動輪輪心部、特にスポークのリム部分には、同時代のドイツ国鉄制式機で採用されていたのと同様の、俗に「水かき」と呼ばれる補強部分が形成されており、この機関車の外観上の大きな特徴の1つとなっている。この「水かき」付きスポーク動輪は変形・スポーク折損などの問題が殆ど発生せずこれらの問題の対策として大きな効果があった。
だが、直後に設計されたD51形・C57形からはアメリカ流のボックス型動輪を採用することとなり、本形式は日本の本線用大型蒸気機関車としては最後のスポーク動輪採用形式となった。
前述のとおり、本形式はD50形・C53形・C50形で既に採用されていた肉厚圧延鋼板による棒台枠を採用している。このため、板台枠を採用していたC51形やC54形とは異なり台枠側面に大きな肉抜き穴が開口されており、前述のスポーク車輪の採用もあって、動輪のスポークと台枠越しに反対側が透けて見えるという、繊細さや軽快感の強い外観となっているのが特徴である。
本形式は、大別して1次形・2次形・3次形の3種に分けられる。
なお、1次形内でも逆転棒の構造が曲がっている(C54と同じ)ものと直線のもの(2次形以後[注 3]やC57に受け継がれたタイプ)があり、前者が1 - 11号機、後者が12号機以後となっている[1]。
2次形は、後述のように流線形の覆いを装着して製造された。2次車が製造された当時、主要幹線の各機関区などでは20 m形以上の大型転車台が設置されていたが、地方の亜幹線では旧規格の60フィート (18 m) 形転車台が多用されていたため、2次形以降ではこうした配置線区の事情に配慮して炭水車のボギー台車心皿中心間隔および炭水車と機関車の連結面間隔を短縮することで全長を240 mm短縮、これにより1次車では転向作業が難しかった60フィート形転車台でも容易に転向可能としている。
流線形[編集]
流線形のC55 21
本形式が登場した時代は世界各国で鉄道車両や自動車に流線形ブームが起こっていた。これは見栄えの向上とともに高速化に伴う空気抵抗を減らすことを目指したものであった。その流れに沿い、C53 43で試験された流線形のキセ(覆い)が本形式にも本格導入され、1936年製の2次車 (20 - 40) の21両は流線形デザインにて新造された。 当時の価格は1両10万円。なお、大阪汽車会社が製造した最初の1両は3ヶ月早く完成したことから、1935年12月中に試験運転が行われている[2]。
この流線形の構造は、形状面ではC53 43と同様に、ボイラー前端の煙室部分を斜めに欠き取り煙室扉周辺を傾斜させた上で、ボイラー全体にケーシングを被せ、前部デッキからランボード、運転台までの足回りをスカートとケーシングで覆った構造であった。これにより、炭水車でも全溶接構造の車体上部までケーシングが伸びており、台車周辺をスカートで覆うことにより一体感が演出された。
なお、C53 43では独立した大型除煙板を取り付けずボイラーケーシングの煙突周辺に小型の除煙板を形成するに留めていたが、本形式では小型除煙板に加え、ランボード上のサイドスカートから連続する形で半円形の背の低い大型除煙板も立てられた。
これらのケーシングやスカートの意図は、デモンストレーション効果だけでなく、空気の流れを良くすることで煙突から排出される煤煙が列車に絡みつくのを防ぐことであったとされる[3]。また、流線形の初期製造車では側面にステンレス製の飾り帯が付けられていたが、後期製造車では省略された。これらの流線形機は、四国以外の全国各地に数両ずつ分散して配置[注 4]され、主に急行列車を牽引した。名古屋機関区配属のC55 24 - 26は臨時特急「燕」の牽引にも起用された。
しかし、同時期のEF55形電気機関車でも採用された流線形は、当時の鉄道省の運用状況(運転速度域)では実用上の効果がほとんどないと判断され、さらに整備や給水・給炭の妨げとなることから現場からも嫌われ、早い時期に先台車周辺のスカートや炭水車上部のケーシングの撤去が始まった。これは1940年(昭和15年)の記録映画「鐵道信號」や同時期に撮影された写真で確認できる。流線形の実用上の効果のなさは、1936年(昭和11年)5月に鹿児島本線で鉄道省運転課や門司鉄道局などの関係者が立会いの下10日間にわたって行われた牽引力や走行状態に関する試運転の結果、当時の鉄道省における旅客列車の最高速度である100 km/h前後までの運転速度において、流線形化による製造費や機関車重量の増加[4]に見合うほどの空力面での利点がないと判断されたものである。また現場からは、様々な部分がケーシングに覆われているため、整備点検の際にはそれらを取り外すか点検蓋を開ける必要があることから一般車より手間が余計にかかり、給水・給炭や火床整理にも不便なこと、空気シリンダーで開閉する構造だった煙室戸は故障で作業中の燃料掛が一時閉じ込められたこと、密閉式運転台はその内部に熱がこもりやすく、単線区間では通票の取り扱いにも難儀すること、炭水車は内部に設置されていた石炭押寄せ装置(炭庫後方部の押寄せ板を蒸気ピストンによって前後動させるもの)が、石炭の固着により動作不能となって故障することもあって運転中の石炭かき寄せ作業ができない、といった問題[5]が指摘された。後に太平洋戦争が激化すると、足回りを中心にスカートやケーシングの大半を撤去し、当初の外見とは大きく異なる無惨な姿で用いられた。
戦後になると、1950年(昭和25年)から翌1951年(昭和26年)にかけて、これら本形式の流線形機は、残っていた流線形ケーシングが完全に撤去され、1次車とほぼ同等の外観となるように再整備が行われてその面目を一新した。ただし、特に改修を必要としなかった丸みを帯びた深い運転台の屋根[注 5]や、側面の乗務員出入り口はそのまま残され、さらに蒸気ドーム前端も傾斜したままとなった。 これ以外に元流線形機は「逆転棒と圧縮空気放熱管との位置関係が逆」、「棒本体の山形鋼が内外逆」といった通常形との差異があるが、28・33号機はこれに加えて小倉工場での改造時に逆転棒が前方のみ湾曲している(D51形の物に近い)ものに変えられていた[1]。 なお、流線形機から再整備された本形式の一部では、2基の安全弁がボイラーバレルよりも一段飛び出した取り付け座(ゲタ)の上に取り付けられているなど、流線形時代の面影を残していた[注 6]。これらの流線形機から再整備されたものは流線形改造機、または流改機とも呼ばれた。これらについては流線形の新車当時よりも、再整備後の方が美しい、という評もある。これら再整備後の21両は一般車と完全に同等の扱いを受け、本形式の最終期まで徐々に数を減じつつ運用された。
流線形改造機のうち北海道内で使用されていたC55 30は保存予定となっていたが、北海道総局内の手違いにより1975年(昭和50年)2月1日に廃車後すぐに苗穂工場で解体されてしまったため、流線形改造機で保存されたものは1両もない。
C53 43を含めた一連の流線形蒸機について、開発に携わった島秀雄は当初から空気抵抗軽減の効果を期待しておらず、詳細なデータの測定もしなかった旨を度々述懐している(一方、排煙誘導の効果については一定の成功を自認している)[3][6]。とはいえ、時流に従って誕生したこれらの車両は当時のメディアでもしばしば取り上げられ、時に新聞の子供向けコーナーでも扱われる[7]など、年少者の関心対象と見なされていた[8]ことも窺える。
運用[編集]
本形式は新造後、本州・九州・北海道の幹線・亜幹線を担当する各機関区へ配置され、運用が開始された。特に流線形となった2次車は、宣伝効果も考慮して全国の広範囲に少数ずつ分散して配置された。
本形式は、より近代化され、より強化されたC57形がすぐに登場し大量生産されたため、その影に隠れ、ともすれば目立ちにくいきらいはあった。しかし両者は、互いにほぼ同等に取り扱うことが可能な上、いずれも性能や使い勝手も良好であったことから、四国を除く各地の幹線・亜幹線で長期間にわたり重用された。
丙線規格路線に入線可能なこのクラスは需要が高かったことから、事故や戦災に遭わず1964年までは62両すべてが在籍していた。本州では1966年ごろまでに転属や廃車で姿を消したが、北海道では1974年秋まで、九州では1975年3月まで現役にあった。
「門デフ」装着例 (C55 46)
北海道で最後の使用線区になった宗谷本線では、1970年12月まで夜行急行列車「利尻」を牽引したことや、道北の自然風景を背景にした姿がファンに強い印象を残している。また、戦後九州に配属されていたグループの大半は小倉工場製の切り取り形除煙板(門鉄デフレクター:門デフ)に交換されており、外観に極めて適合していたため、愛好者が多かった。
最終廃車(梅小路保存後除籍のC55 1を除く)は1975年3月末日廃車のC55 57であった。
「門デフ」以外の主だった改造・変形
北海道配属の1・3次形のキャブを密閉タイプに改造およびシールドビーム副灯取り付け(C55 7を除く)。
九州地区配属機の一部 (C55 51 - 54) がロングラン対応のため、D51形とテンダを交換した。
C55 11に一時、小倉工場で独自設計の集煙装置を取り付けて試用した。このため同機は煙突が短い。
C55 48(旭川所属時)のみ、前面左側手すりを入換対応形に改造。
重油併燃装置の追加搭載や動輪の振り替えなどは施工されていない。
台湾総督府鉄道C55形[編集]
本形式は、内地向けのほか、当時日本統治下にあった台湾の台湾総督府鉄道向けに、1935年および1938年に同形車9両 (C55 1 - 9) が納入されている。最初の5両は基隆機関区に配置され、増備車が揃った1939年(昭和14年)には台北機関区5両、苗栗機関区4両となっていた。1945年に日本が太平洋戦争に敗れた後は、台湾鉄路管理局に引き継がれてCT250形 (CT251 - 259)となり、1982年10月に形式消滅している。
1935年(5両、国鉄向け1次形相当)
三菱重工業:1 - 4
川崎車輛:5
1938年(3両、国鉄向け3次形相当)
三菱重工業:6 - 9
保存機[編集]
62両と少数製造であったこと、本州では比較的早期に廃車されたため、全体の形状を留める個体はわずかに4両のみである。C55 1が静態保存となったため、現在動態保存機はない。
C55形保存機一覧
画像 番号 所在地 備考
C55 49 北海道稚内市
稚内港北防波堤ドーム
※解体済み 塩害による老朽化に伴い1996年に解体され[9]、以後は動輪のみが保存されている。
C55 50 北海道小樽市手宮1丁目3-6
小樽市総合博物館 元流線形のC55 30が保存予定にあげられていたが、先述のように廃車後すぐに解体されてしまったため、1974年11月18日に旭川機関区で廃車された当機が「C55 30」のナンバープレートを付けて搬入された。しかし外部より指摘を受け改めてC55 50として保存された。走行装置の「C55 50」の刻印に「3」を上から打ち直した形跡が見られるのはそのような経緯があるためである[10]。運転室が密閉式に改造されている。
C55 1 京都府京都市下京区観喜寺町
京都鉄道博物館 1972年に梅小路蒸気機関車館(京都鉄道博物館の前身)の開館に伴い保存され、2006年に「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定された。保存当初は動態保存であったが現在は除籍され静態保存となっている。
C55 53 (46) 大分県大分市中央町2丁目4
若草公園 門デフ付き。番号はC55 53であるが、実際にはC55 46にC55 53のナンバープレートを取り付けたものである。写真は公園改装前のもので、現在は屋根が付けられた。公園での静態保存時に公募で「そうりん号」という愛称が付けられた。
C55 52 鹿児島県姶良郡湧水町川西
吉松駅前 門デフ付き。
台湾鉄路管理局
CT251 台湾
台南市南区体育路10号
台南市立体育公園 2019~2020年にかけて修復[11][12]。保存時に同じく保存対象機であったCT259とナンバープレートが入れ替わっており、番号がCT259となっていたが,2019~2020年修復時に元のCT251に付け替えられた。
台湾鉄路管理局
CT259 台湾
高雄市鼓山区鼓山一路32号
旧打狗駅故事館 当初は高雄市蓮池潭に保存されたがこのときには同じく保存対象機であったCT251とナンバープレートが入れ替わり、番号がCT251となっていた。2011年に現在地に移設された際、ナンバープレートも本来のCT259となった。
※所在地は現時点の所在地(すでに解体された車両については最終時の所在地)
脚注[編集]
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注釈[編集]
^ このレイアウトは以後の国鉄制式蒸気機関車各形式に踏襲された。
^ これは貨物機であるD50形などでも問題となっており、増備途上でのスポーク本数増加などの対策が講じられていたが、それでも不十分であった。
^ 後述の28・33号機はやや例外、また番号が3次形の車両(C55 41以後)にも湾曲タイプのものが確認されているが、車体振替で番号を交換している可能性がある。少なくとも55号機は1968年8月14日撮影の写真で湾曲が確認できるが、運転室の製造銘板に「昭10汽車(昭和10年に汽車会社で製造)」という、本来の55号機(昭和12年に川崎車両で製造)にはあり得ない記載や通票キャリア車上受の取付ボルト穴がナンバープレートと重なっている(プレートに穴が開けられている)こと、さらに床面が低い(1次形の特徴)ことから1935年製造の1次形の番号が直された車両であったことが確認されている(『鉄道模型趣味』No.936、p.65)。
^ 新製時の配置は札幌・仙台・東京・名古屋・門司の各鉄道局管内に3両、広島鉄道局管内に2両、大阪鉄道局管内に4両であった。
^ 本形式以降の戦前製C形各形式(C58を除く)は運転台正面窓に30°の後退角を持たせた折妻となっているが、流線形から普通形へ改装された21両に関しては切妻とされている。
^ 中でも、C55 27は最後まで安全弁が高い位置のまま保たれていた。
出典[編集]
^ a b 大塚孝「逆転棒の湾曲したC55」『鉄道模型趣味』No.936、機芸出版社、2020年1月号、雑誌06455-1、p.64-65。
^ C55型流線型機関車が完成『中外商業新報』昭和10年12月6日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p425 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
^ a b 島秀雄他「てい談(原文ママ)流線型時代を語る」電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1984年1月号 pp.10 - 15
^ 寺島京一「機関車史のうらばなし15 流線形機関車考」レイル 1979年9月号 pp.26 - 28 プレス・アイゼンバーン刊
^ 増渕直三郎『C55形式機関車の印象』「日本蒸気機関車特集集成(上)」pp.158 - 159 1978年5月 鉄道図書刊行会刊
^ 島秀雄「流線型蒸気機関車」「鉄道ファン」2000年7月号 pp.126-131。社団法人「日本鉄道技術協会」発行「島秀雄遺稿集」
^ 朝日新聞フォトアーカイブ「新聞社が見た鉄道 Vol.003 流線形の時代」イカロス出版 2017年10月25日発行、pp.2-3
^ おのつよし 『日本の鉄道100ものがたり』文藝春秋文春文庫 1991年5月10日、pp.163 - 166
^ “最北のSLに惜別の声”. 交通新聞 (交通新聞社): p. 3. (1996年9月27日)
^ 「鉄道ファン」1977年8月号REPORT
^ “'日本統治時代のSL、修繕終わる 南部・台南で公開'”. フォーカス台湾 (中央社). (2020年4月23日) 2020年5月17日閲覧。
^ 台南市文化資産管理処「重現1982」原臺灣總督府C551、D512蒸汽機關車修復紀實影片
参考文献[編集]
ウィキメディア・コモンズには、国鉄C55形蒸気機関車に関連するカテゴリがあります。
臼井茂信「日本蒸気機関車形式図集成」1969年、誠文堂新光社刊
臼井茂信「機関車の系譜図 4」1972年、交友社刊
川上幸義「私の蒸気機関車史 下」1978年、交友社刊
高田隆雄監修「万有ガイドシリーズ12 蒸気機関車 日本編」1981年、小学館刊
寺島京一「台湾鉄道の蒸気機関車について」レイルNo.23(1988年)プレス・アイゼンバーン刊
三品勝睴「C55,C57形式蒸気機関車」世界の鉄道'71(1970年)朝日新聞社刊
『SL』第3巻、交友社、1971年11月。
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表話編歴
日本国有鉄道(鉄道院・鉄道省)の制式蒸気機関車
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表話編歴
台湾総督府鉄道/ 台湾鉄路管理局の蒸気機関車
カテゴリ: 日本国有鉄道の蒸気機関車汽車製造製の蒸気機関車川崎重工業製の蒸気機関車日立製作所製の蒸気機関車三菱重工業製の蒸気機関車台湾の蒸気機関車台湾総督府鉄道の鉄道車両台湾鉄路管理局の鉄道車両旅客用蒸気機関車1935年製の鉄道車両準鉄道記念物車輪配置4-6-2の機関車過熱式蒸気機関車単式機関車
最終更新 2024年4月9日 (火) 21:16 (日時は個人設定で未設定
概要 4 **宗谷本線(そうやほんせん)**は、北海道の旭川駅から日本最北端の稚内駅までを 結ぶJR北海道の鉄道路線です。全長は約259kmで、JRの在来線としては最北の路線。 道北の都市や集落を縦断し、生活路線・観光路線の両方の役割を担っています。 起点:旭川駅 終点:...