88歳 語り部となった理由 長岡空襲を語り継ぐ(後編)(BSN新潟放送) - Yahoo!ニュース
76年前、長岡空襲を体験し、今年88歳にして初めて語り部として活動を始めた女性が新潟県長岡市にいます。なぜこれまで話さなかったのか。空襲で亡くなった母の無念を背負い、「つらい過去」と「自ら考えて生きる意味」を語りました。 ※前編<母との思い出が途切れた日>からの続き 櫻井さんは戦後、中学校の教師として過ごし結婚。2人の女の子の母にもなります。 【記者】 「教え子の皆さんに戦争について話をする?」 【長岡空襲体験者 櫻井信子さん(88)】 「ありません。私は全然話していません。話すのがつらいということでしょうね、きっとね」 それでも今、語るのには理由があります。母の無念です。 【櫻井信子さん】「私の母などは5人の子どもをおいて、家が焼け出されて、これからどうしていくだろうと思うと、とても死にきれなかったと思います。戦災でなくなった人たち、1500人近くの人がいるわけですけれど、その一人一人にそういう思いがあったと思うんです。生きたいけれど、生きられない」 「生きたい」。現代の日本で、この言葉をかみしめる人がどれだけいるでしょうか。 【櫻井信子さん】「私は母に対しては、何もしてやれなかったという思いだけが残っています。無念な思いを抱えながら亡くなっていったということ。そのことに皆さんも心を寄せてもらいたいと思っています」 今年6月、語り部やボランティアとして活動していた、長岡市の金子登美さんが87歳で亡くなりました。 【金子登美さん(当時86歳)】※去年7月 「戦争で命を失った人たちが置いていってくれた平和なんですね。それを決して忘れてはいけない」 【櫻井信子さん】 「立派だと思いますよ。それこそ、つらいことがいっぱいおありだったんでしょうけれど」 金子さんの思いを受け継ぐ語り部の一人として今年、76年間胸に抱え続けた思いを語り始めた櫻井さんの覚悟。私たちは受け止め、つないでいくべきではないでしょうか。 桜井さんは、ゆくゆくは中学校などに出向いて、若い人たちに伝えたいことがあります。自ら考えて生きる大切さです。 【櫻井信子さん】「国のために命を捨てても悔いのないような、そういう教育でしたね。それぞれの人が自分で考えていたわけではなくて、一般の庶民は上の方から言われれば、それはそうだと思って協力していたわけですからね。今の若い人たちに自分の考えで、自分の頭でものを考えて、判断ができるような人間になってほしいと思います」 母が感じた無念を生まないために、一人一人が平和をつないでいくために、櫻井さんの語り部としての活動は始まったばかりです。
BSN新潟放送
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