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2024年4月17日水曜日

国鉄C55形蒸気機関車

 



国鉄C55形蒸気機関車



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(引用編集)


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C55形蒸気機関車

保存中のC55 1(梅小路蒸気機関車館、2006年)

保存中のC55 1(梅小路蒸気機関車館、2006年)

基本情報

運用者 鉄道省 → 日本国有鉄道

製造所 川崎車輛、汽車製造、三菱重工業、日立製作所

製造年 1935年 - 1937年

製造数 62両

引退 1975年

愛称 シゴゴ

主要諸元

軸配置 2C1

軌間 1,067 mm

全長 20,280 mm

全高 3,945 mm

機関車重量 66.04 t

総重量 113.04 t

動輪径 1,750 mm

軸重 13.62 t(第3動輪)

シリンダ数 単式2気筒

シリンダ

(直径×行程) 510 mm × 660 mm

弁装置 ワルシャート式

ボイラー圧力 14 kg/cm2 (1.373 MPa; 199.1 psi)

大煙管

(直径×長さ×数) 140 mm×5,500 mm×18本

小煙管

(直径×長さ×数) 57 mm×5,500 mm×84本

火格子面積 2.53 m2

全伝熱面積 168.8 m2

過熱伝熱面積 41.4 m2

煙管蒸発伝熱面積 115.0 m2

火室蒸発伝熱面積 11.4 m2

燃料 石炭

制動装置 自動空気ブレーキ

最高速度 100 km/h

最大出力 1,211 PS

定格出力 1,040 PS

シリンダ引張力 11,680 kg

粘着引張力 10,180 kg

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C55形蒸気機関車(C55がたじょうきかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が設計した亜幹線旅客列車用中型テンダー式蒸気機関車の一つである。愛称はシゴゴ。


誕生の背景[編集]

1930年代に入ると、亜幹線の旅客輸送力強化を目的として、丙線規格の路線に入線可能なC51形の後継機種の製造が計画された。しかし、最初に設計されたC54形(1931年〈昭和6年〉)は、ボイラー圧力の高圧化と過度の軽量化に起因し空転を頻発するなど、乗務員からの不評が殺到し、わずか17両で生産が打ち切られていた。


そこで、丙線規格の各線で不足する旅客列車用機関車を補うべく設計されたのが本形式である。本形式は、C54形の失敗を教訓としつつ棒台枠を採用するなど、より新しい技術を取り入れたものであった。


本形式は内地向けには1935年(昭和10年)に製造が開始され、3次に分けて合計62両が製造された。


C55 63以降も一部設計変更の上で本形式が増備される計画であったが、当該設計変更が多岐に渡ったことから、C55 63に相当するもの以降には、C57形という新形式が付与された。


製造[編集]

本形式は、川崎車輛、汽車製造会社、三菱重工業、日立製作所の4社により、1935年(昭和10年)から1937年(昭和12年)までの間に62両が製造された。上述のように63両目以降C57形の新形式が与えられることとなり、C55形としての新造は62両で打ち切られた。


製造年ごとの番号および両数は、次のとおりである。


1935年(1次形): 1 - 19(19両)

1936年(2次形): 20 - 40(21両)

1937年(3次形): 41 - 62(22両)

製造会社別の番号と両数は次のとおりである。


川崎車輛(39両)

C55 1 - 3(製造番号1538 - 1540)

C55 10 - 18(製造番号1541・1550・1576 - 1578・1584 - 1587)

C55 21 - 33(製造番号1628 - 1640)

C55 41 - 48(製造番号1754 - 1761)

C55 55 - 60(製造番号1763 - 1768)

汽車製造(11両)

C55 4 - 7(製造番号1281 - 1284)

C55 20(製造番号1336)

C55 49 - 52(製造番号1457 - 1460)

C55 61・62(製造番号1461・1462)

日立製作所(10両)

C55 8・9(製造番号620・621)

C55 19(製造番号687)

C55 34 - 40(製造番号709 - 715)

三菱重工業(2両)

C55 53・54(製造番号200・201)

構造[編集]

本形式の基本構造は、代替・増備対象であるC51形やC54形の基本構成を踏襲している。


このため、3缶胴構成の缶胴部と1軸従台車で支持される広火室(英語版)を組み合わせたストレート形煙管式ボイラーを備え、軸配置を4-6-2(ホワイト式)あるいは2C1(日本式)とした、軽量級の過熱式単式2気筒テンダー機関車となっている。


ただし、ボイラーについては強力な自動空気ブレーキの採用の結果、下り勾配走行中に急ブレーキをかけた際に水面傾斜が原因で蒸気ドーム内に湯が入り込むというトラブルが発生したことから、C51形やC54形では第1缶胴部に置かれていた蒸気ドームの設置位置が変更され、本形式では第2缶胴部に置かれるようになった。また、これにあわせて従来は第二缶胴部中央上に置かれていた砂箱が本形式では蒸気ドーム直前へ移設され、両者が一体のカバーで覆われた[注 1]。本形式の外観は、電気溶接技術の進歩を受けて溶接工法の採用部位を大幅に拡大し、リベットを減少させるとともに多くの部分に直線基調のディテールを採ったことと併せて、古典的なC51形に比して格段にモダナイズされた。


本形式のボイラー圧力やシリンダ寸法などはC54形のそれをそのまま踏襲しており、各動軸の軸重を丙線規格の許容する範囲内で増大させることで粘着性能を改善し、空転対策としている。



C55形の動輪部分

本形式の動輪はC51形やC54形と同様に直径1,750 mmのスポーク動輪であるが、それらの形式で動輪強度の不足に起因するスポーク割損やタイヤ部変形が多発して問題となっていた[注 2]ことから、本形式では新設計の補強付きスポーク動輪が採用された。


鋳鋼製の動輪輪心部、特にスポークのリム部分には、同時代のドイツ国鉄制式機で採用されていたのと同様の、俗に「水かき」と呼ばれる補強部分が形成されており、この機関車の外観上の大きな特徴の1つとなっている。この「水かき」付きスポーク動輪は変形・スポーク折損などの問題が殆ど発生せずこれらの問題の対策として大きな効果があった。


だが、直後に設計されたD51形・C57形からはアメリカ流のボックス型動輪を採用することとなり、本形式は日本の本線用大型蒸気機関車としては最後のスポーク動輪採用形式となった。


前述のとおり、本形式はD50形・C53形・C50形で既に採用されていた肉厚圧延鋼板による棒台枠を採用している。このため、板台枠を採用していたC51形やC54形とは異なり台枠側面に大きな肉抜き穴が開口されており、前述のスポーク車輪の採用もあって、動輪のスポークと台枠越しに反対側が透けて見えるという、繊細さや軽快感の強い外観となっているのが特徴である。


本形式は、大別して1次形・2次形・3次形の3種に分けられる。


なお、1次形内でも逆転棒の構造が曲がっている(C54と同じ)ものと直線のもの(2次形以後[注 3]やC57に受け継がれたタイプ)があり、前者が1 - 11号機、後者が12号機以後となっている[1]。


2次形は、後述のように流線形の覆いを装着して製造された。2次車が製造された当時、主要幹線の各機関区などでは20 m形以上の大型転車台が設置されていたが、地方の亜幹線では旧規格の60フィート (18 m) 形転車台が多用されていたため、2次形以降ではこうした配置線区の事情に配慮して炭水車のボギー台車心皿中心間隔および炭水車と機関車の連結面間隔を短縮することで全長を240 mm短縮、これにより1次車では転向作業が難しかった60フィート形転車台でも容易に転向可能としている。


流線形[編集]


流線形のC55 21

本形式が登場した時代は世界各国で鉄道車両や自動車に流線形ブームが起こっていた。これは見栄えの向上とともに高速化に伴う空気抵抗を減らすことを目指したものであった。その流れに沿い、C53 43で試験された流線形のキセ(覆い)が本形式にも本格導入され、1936年製の2次車 (20 - 40) の21両は流線形デザインにて新造された。 当時の価格は1両10万円。なお、大阪汽車会社が製造した最初の1両は3ヶ月早く完成したことから、1935年12月中に試験運転が行われている[2]。


この流線形の構造は、形状面ではC53 43と同様に、ボイラー前端の煙室部分を斜めに欠き取り煙室扉周辺を傾斜させた上で、ボイラー全体にケーシングを被せ、前部デッキからランボード、運転台までの足回りをスカートとケーシングで覆った構造であった。これにより、炭水車でも全溶接構造の車体上部までケーシングが伸びており、台車周辺をスカートで覆うことにより一体感が演出された。


なお、C53 43では独立した大型除煙板を取り付けずボイラーケーシングの煙突周辺に小型の除煙板を形成するに留めていたが、本形式では小型除煙板に加え、ランボード上のサイドスカートから連続する形で半円形の背の低い大型除煙板も立てられた。


これらのケーシングやスカートの意図は、デモンストレーション効果だけでなく、空気の流れを良くすることで煙突から排出される煤煙が列車に絡みつくのを防ぐことであったとされる[3]。また、流線形の初期製造車では側面にステンレス製の飾り帯が付けられていたが、後期製造車では省略された。これらの流線形機は、四国以外の全国各地に数両ずつ分散して配置[注 4]され、主に急行列車を牽引した。名古屋機関区配属のC55 24 - 26は臨時特急「燕」の牽引にも起用された。


しかし、同時期のEF55形電気機関車でも採用された流線形は、当時の鉄道省の運用状況(運転速度域)では実用上の効果がほとんどないと判断され、さらに整備や給水・給炭の妨げとなることから現場からも嫌われ、早い時期に先台車周辺のスカートや炭水車上部のケーシングの撤去が始まった。これは1940年(昭和15年)の記録映画「鐵道信號」や同時期に撮影された写真で確認できる。流線形の実用上の効果のなさは、1936年(昭和11年)5月に鹿児島本線で鉄道省運転課や門司鉄道局などの関係者が立会いの下10日間にわたって行われた牽引力や走行状態に関する試運転の結果、当時の鉄道省における旅客列車の最高速度である100 km/h前後までの運転速度において、流線形化による製造費や機関車重量の増加[4]に見合うほどの空力面での利点がないと判断されたものである。また現場からは、様々な部分がケーシングに覆われているため、整備点検の際にはそれらを取り外すか点検蓋を開ける必要があることから一般車より手間が余計にかかり、給水・給炭や火床整理にも不便なこと、空気シリンダーで開閉する構造だった煙室戸は故障で作業中の燃料掛が一時閉じ込められたこと、密閉式運転台はその内部に熱がこもりやすく、単線区間では通票の取り扱いにも難儀すること、炭水車は内部に設置されていた石炭押寄せ装置(炭庫後方部の押寄せ板を蒸気ピストンによって前後動させるもの)が、石炭の固着により動作不能となって故障することもあって運転中の石炭かき寄せ作業ができない、といった問題[5]が指摘された。後に太平洋戦争が激化すると、足回りを中心にスカートやケーシングの大半を撤去し、当初の外見とは大きく異なる無惨な姿で用いられた。


戦後になると、1950年(昭和25年)から翌1951年(昭和26年)にかけて、これら本形式の流線形機は、残っていた流線形ケーシングが完全に撤去され、1次車とほぼ同等の外観となるように再整備が行われてその面目を一新した。ただし、特に改修を必要としなかった丸みを帯びた深い運転台の屋根[注 5]や、側面の乗務員出入り口はそのまま残され、さらに蒸気ドーム前端も傾斜したままとなった。 これ以外に元流線形機は「逆転棒と圧縮空気放熱管との位置関係が逆」、「棒本体の山形鋼が内外逆」といった通常形との差異があるが、28・33号機はこれに加えて小倉工場での改造時に逆転棒が前方のみ湾曲している(D51形の物に近い)ものに変えられていた[1]。 なお、流線形機から再整備された本形式の一部では、2基の安全弁がボイラーバレルよりも一段飛び出した取り付け座(ゲタ)の上に取り付けられているなど、流線形時代の面影を残していた[注 6]。これらの流線形機から再整備されたものは流線形改造機、または流改機とも呼ばれた。これらについては流線形の新車当時よりも、再整備後の方が美しい、という評もある。これら再整備後の21両は一般車と完全に同等の扱いを受け、本形式の最終期まで徐々に数を減じつつ運用された。


流線形改造機のうち北海道内で使用されていたC55 30は保存予定となっていたが、北海道総局内の手違いにより1975年(昭和50年)2月1日に廃車後すぐに苗穂工場で解体されてしまったため、流線形改造機で保存されたものは1両もない。


C53 43を含めた一連の流線形蒸機について、開発に携わった島秀雄は当初から空気抵抗軽減の効果を期待しておらず、詳細なデータの測定もしなかった旨を度々述懐している(一方、排煙誘導の効果については一定の成功を自認している)[3][6]。とはいえ、時流に従って誕生したこれらの車両は当時のメディアでもしばしば取り上げられ、時に新聞の子供向けコーナーでも扱われる[7]など、年少者の関心対象と見なされていた[8]ことも窺える。


運用[編集]

本形式は新造後、本州・九州・北海道の幹線・亜幹線を担当する各機関区へ配置され、運用が開始された。特に流線形となった2次車は、宣伝効果も考慮して全国の広範囲に少数ずつ分散して配置された。


本形式は、より近代化され、より強化されたC57形がすぐに登場し大量生産されたため、その影に隠れ、ともすれば目立ちにくいきらいはあった。しかし両者は、互いにほぼ同等に取り扱うことが可能な上、いずれも性能や使い勝手も良好であったことから、四国を除く各地の幹線・亜幹線で長期間にわたり重用された。


丙線規格路線に入線可能なこのクラスは需要が高かったことから、事故や戦災に遭わず1964年までは62両すべてが在籍していた。本州では1966年ごろまでに転属や廃車で姿を消したが、北海道では1974年秋まで、九州では1975年3月まで現役にあった。



「門デフ」装着例 (C55 46)

北海道で最後の使用線区になった宗谷本線では、1970年12月まで夜行急行列車「利尻」を牽引したことや、道北の自然風景を背景にした姿がファンに強い印象を残している。また、戦後九州に配属されていたグループの大半は小倉工場製の切り取り形除煙板(門鉄デフレクター:門デフ)に交換されており、外観に極めて適合していたため、愛好者が多かった。


最終廃車(梅小路保存後除籍のC55 1を除く)は1975年3月末日廃車のC55 57であった。


「門デフ」以外の主だった改造・変形


北海道配属の1・3次形のキャブを密閉タイプに改造およびシールドビーム副灯取り付け(C55 7を除く)。

九州地区配属機の一部 (C55 51 - 54) がロングラン対応のため、D51形とテンダを交換した。

C55 11に一時、小倉工場で独自設計の集煙装置を取り付けて試用した。このため同機は煙突が短い。

C55 48(旭川所属時)のみ、前面左側手すりを入換対応形に改造。

重油併燃装置の追加搭載や動輪の振り替えなどは施工されていない。


台湾総督府鉄道C55形[編集]

本形式は、内地向けのほか、当時日本統治下にあった台湾の台湾総督府鉄道向けに、1935年および1938年に同形車9両 (C55 1 - 9) が納入されている。最初の5両は基隆機関区に配置され、増備車が揃った1939年(昭和14年)には台北機関区5両、苗栗機関区4両となっていた。1945年に日本が太平洋戦争に敗れた後は、台湾鉄路管理局に引き継がれてCT250形 (CT251 - 259)となり、1982年10月に形式消滅している。


1935年(5両、国鉄向け1次形相当)

三菱重工業:1 - 4

川崎車輛:5

1938年(3両、国鉄向け3次形相当)

三菱重工業:6 - 9

保存機[編集]

62両と少数製造であったこと、本州では比較的早期に廃車されたため、全体の形状を留める個体はわずかに4両のみである。C55 1が静態保存となったため、現在動態保存機はない。


C55形保存機一覧

画像 番号 所在地 備考

C55 49 北海道稚内市

稚内港北防波堤ドーム

※解体済み 塩害による老朽化に伴い1996年に解体され[9]、以後は動輪のみが保存されている。

C55 50 北海道小樽市手宮1丁目3-6

小樽市総合博物館 元流線形のC55 30が保存予定にあげられていたが、先述のように廃車後すぐに解体されてしまったため、1974年11月18日に旭川機関区で廃車された当機が「C55 30」のナンバープレートを付けて搬入された。しかし外部より指摘を受け改めてC55 50として保存された。走行装置の「C55 50」の刻印に「3」を上から打ち直した形跡が見られるのはそのような経緯があるためである[10]。運転室が密閉式に改造されている。

C55 1 京都府京都市下京区観喜寺町

京都鉄道博物館 1972年に梅小路蒸気機関車館(京都鉄道博物館の前身)の開館に伴い保存され、2006年に「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定された。保存当初は動態保存であったが現在は除籍され静態保存となっている。

C55 53 (46) 大分県大分市中央町2丁目4

若草公園 門デフ付き。番号はC55 53であるが、実際にはC55 46にC55 53のナンバープレートを取り付けたものである。写真は公園改装前のもので、現在は屋根が付けられた。公園での静態保存時に公募で「そうりん号」という愛称が付けられた。

C55 52 鹿児島県姶良郡湧水町川西

吉松駅前 門デフ付き。

台湾鉄路管理局

CT251 台湾

台南市南区体育路10号

台南市立体育公園 2019~2020年にかけて修復[11][12]。保存時に同じく保存対象機であったCT259とナンバープレートが入れ替わっており、番号がCT259となっていたが,2019~2020年修復時に元のCT251に付け替えられた。

台湾鉄路管理局

CT259 台湾

高雄市鼓山区鼓山一路32号

旧打狗駅故事館 当初は高雄市蓮池潭に保存されたがこのときには同じく保存対象機であったCT251とナンバープレートが入れ替わり、番号がCT251となっていた。2011年に現在地に移設された際、ナンバープレートも本来のCT259となった。

※所在地は現時点の所在地(すでに解体された車両については最終時の所在地)


脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

^ このレイアウトは以後の国鉄制式蒸気機関車各形式に踏襲された。

^ これは貨物機であるD50形などでも問題となっており、増備途上でのスポーク本数増加などの対策が講じられていたが、それでも不十分であった。

^ 後述の28・33号機はやや例外、また番号が3次形の車両(C55 41以後)にも湾曲タイプのものが確認されているが、車体振替で番号を交換している可能性がある。少なくとも55号機は1968年8月14日撮影の写真で湾曲が確認できるが、運転室の製造銘板に「昭10汽車(昭和10年に汽車会社で製造)」という、本来の55号機(昭和12年に川崎車両で製造)にはあり得ない記載や通票キャリア車上受の取付ボルト穴がナンバープレートと重なっている(プレートに穴が開けられている)こと、さらに床面が低い(1次形の特徴)ことから1935年製造の1次形の番号が直された車両であったことが確認されている(『鉄道模型趣味』No.936、p.65)。

^ 新製時の配置は札幌・仙台・東京・名古屋・門司の各鉄道局管内に3両、広島鉄道局管内に2両、大阪鉄道局管内に4両であった。

^ 本形式以降の戦前製C形各形式(C58を除く)は運転台正面窓に30°の後退角を持たせた折妻となっているが、流線形から普通形へ改装された21両に関しては切妻とされている。

^ 中でも、C55 27は最後まで安全弁が高い位置のまま保たれていた。

出典[編集]

^ a b 大塚孝「逆転棒の湾曲したC55」『鉄道模型趣味』No.936、機芸出版社、2020年1月号、雑誌06455-1、p.64-65。

^ C55型流線型機関車が完成『中外商業新報』昭和10年12月6日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p425 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)

^ a b 島秀雄他「てい談(原文ママ)流線型時代を語る」電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1984年1月号 pp.10 - 15

^ 寺島京一「機関車史のうらばなし15 流線形機関車考」レイル 1979年9月号 pp.26 - 28 プレス・アイゼンバーン刊

^ 増渕直三郎『C55形式機関車の印象』「日本蒸気機関車特集集成(上)」pp.158 - 159 1978年5月 鉄道図書刊行会刊

^ 島秀雄「流線型蒸気機関車」「鉄道ファン」2000年7月号 pp.126-131。社団法人「日本鉄道技術協会」発行「島秀雄遺稿集」

^ 朝日新聞フォトアーカイブ「新聞社が見た鉄道 Vol.003 流線形の時代」イカロス出版 2017年10月25日発行、pp.2-3

^ おのつよし 『日本の鉄道100ものがたり』文藝春秋文春文庫 1991年5月10日、pp.163 - 166

^ “最北のSLに惜別の声”. 交通新聞 (交通新聞社): p. 3. (1996年9月27日)

^ 「鉄道ファン」1977年8月号REPORT

^ “'日本統治時代のSL、修繕終わる 南部・台南で公開'”. フォーカス台湾 (中央社). (2020年4月23日) 2020年5月17日閲覧。

^ 台南市文化資産管理処「重現1982」原臺灣總督府C551、D512蒸汽機關車修復紀實影片

参考文献[編集]


ウィキメディア・コモンズには、国鉄C55形蒸気機関車に関連するカテゴリがあります。

臼井茂信「日本蒸気機関車形式図集成」1969年、誠文堂新光社刊

臼井茂信「機関車の系譜図 4」1972年、交友社刊

川上幸義「私の蒸気機関車史 下」1978年、交友社刊

高田隆雄監修「万有ガイドシリーズ12 蒸気機関車 日本編」1981年、小学館刊

寺島京一「台湾鉄道の蒸気機関車について」レイルNo.23(1988年)プレス・アイゼンバーン刊

三品勝睴「C55,C57形式蒸気機関車」世界の鉄道'71(1970年)朝日新聞社刊

『SL』第3巻、交友社、1971年11月。

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表話編歴

 日本国有鉄道(鉄道院・鉄道省)の制式蒸気機関車

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表話編歴

台湾総督府鉄道/ 台湾鉄路管理局の蒸気機関車

カテゴリ: 日本国有鉄道の蒸気機関車汽車製造製の蒸気機関車川崎重工業製の蒸気機関車日立製作所製の蒸気機関車三菱重工業製の蒸気機関車台湾の蒸気機関車台湾総督府鉄道の鉄道車両台湾鉄路管理局の鉄道車両旅客用蒸気機関車1935年製の鉄道車両準鉄道記念物車輪配置4-6-2の機関車過熱式蒸気機関車単式機関車

最終更新 2024年4月9日 (火) 21:16 (日時は個人設定で未設定

2024年4月15日月曜日

C57形


C57形




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(引用編集)

C57形蒸気機関車

山口線を力走するC57 1

山口線を力走するC57 1

基本情報

運用者 鉄道省→日本国有鉄道→西日本旅客鉄道

東日本旅客鉄道

製造所 川崎車輛、汽車製造

三菱重工業

日立製作所

製造年 1937年 - 1947年

製造数 201両

引退 1975年(定期運用)[1][注 1]

主要諸元

軸配置 2C1

軌間 1,067 mm

全長 20,280 mm

全高 3,945 mm

機関車重量 67.50 t

総重量 115.50 t

動輪径 1,750 mm

軸重 13.96 t(第3動輪)

シリンダ数 単式2気筒

シリンダ

(直径×行程) 500 mm×600 mm

弁装置 ワルシャート式

ボイラー圧力 16.0 kg/cm2 (1.569 MPa; 227.6 psi)

大煙管

(直径×長さ×数) 140 mm×5,500 mm×18本

小煙管

(直径×長さ×数) 57 mm×5,500 mm×84本

火格子面積 2.53 m2

全伝熱面積 168.8 m2

過熱伝熱面積 41.4 m2

煙管蒸発伝熱面積 115.0 m2

火室蒸発伝熱面積 11.4 m2

燃料 石炭

制動装置 自動空気ブレーキ

最高運転速度 100 km/h

最大出力 1,290 PS

定格出力 1,040 PS

シリンダ引張力 12,820 kg

粘着引張力 10,330 kg

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国鉄C57形蒸気機関車(こくてつC57がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の旅客用テンダー式蒸気機関車(SL)である。2022年現在も山口線のSLやまぐち号や、磐越西線のSLばんえつ物語の運行に使用されており、マスコミなどでは「貴婦人(きふじん)」の愛称[1]で紹介されることも多い。鉄道ファン等からは「シゴナナ」と呼ばれている。


観光列車やイベントを除いて、日本で最後の旅客営業運転をおこなったSLである(1975年12月14日、北海道の室蘭本線室蘭駅発岩見沢駅行き)[1]。


誕生の経緯[編集]

1937年(昭和12年)、C55形の63号機として製造が始められた機関車であるが、改良箇所が多岐に及んだため、検討の末に新形式とすることが決定され、C57形蒸気機関車として誕生をしている。


1947年(昭和22年)までの間に201両が量産された。本形式への信頼も高く、C51形に始まるライトパシフィック機の決定版となった。


構造[編集]

C55形との主な相違点はボイラー使用圧力の上昇(14kg/cm2→16kg/cm2)、それにともなうシリンダ直径の縮小(510mm→500mm)、スポーク動輪からボックス動輪への変更などである。ボイラー使用圧力が上昇したことにより、C55形よりも石炭・水消費量の減少や出力上昇など性能が向上し、これが新形式を与える決め手になったとも言われる。C55形とC57形は共通運用となる場合も多かったが、線形や列車条件によっては混運用ができない場合もあった。 基本設計を固めるに際し、設計陣からは軸重を15tとしてボイラーをひと回り大きくする案も出ていたが、使用者側は広域運用ができるほうが望ましいとしたため、ボイラーはC51と同等になった。[2] 動輪以外での形態的な変化は、煙室前端部の曲面化、蒸気ドーム キセ後端部の傾斜化、エプロンの傾斜角変更が目立つところである。なお、C57形でもC57 110のように事故や腐食などの修繕や更新で、煙室前端部がC55形のように平面化されたものが数両存在する。


製造時期により、形態が若干異なっている(詳細後述)。戦後に製造されたもののうち、第4次形と呼ばれるタイプは運転室が密閉型となるなど、C59形に準ずるスタイルになっており、戦前から戦中に製造されたものとは、寸法や重量が若干異なる。


戦後に製造された3次形と4次形の中には、技術力、品質管理能力の低下により、ボイラーの性能が悪いものがあり、該当車両は一時期使用圧力を下げて運用されるなどの不便を招いていた。このため、1957年(昭和32年)から1959年(昭和34年)にかけて、本形式のうち57両のボイラーが新造品に載せ替えられている。なお、ボイラー取り替え対象車両の中には、上記以外にX線検査の結果不備が見つかった戦前製のものも含まれている。現在は動態保存中のC57 1も1958年(昭和33年)にボイラーの載せ替えが実施されている。


製造[編集]

鉄道省向けには、川崎車輛、汽車製造会社、三菱重工業、日立製作所の4社により、計201両が製造された。その他、台湾総督府鉄道およびその後身である台湾鉄路管理局向けに14両が製造されている。


年別の製造状況は次のとおりである。


1937年(16両):C57 1 - 14, 33, 34

1938年(62両):C57 15 - 32, 35 - 78

1939年(46両):C57 79 - 124

1940年(26両):C57 125 - 150

1941年(2両):C57 151, 152

1942年(17両):C57 153 - 169

1946年(21両):C57 170 - 190

1947年(11両):C57 191 - 201

製造所別の製造状況は次のとおりである。


川崎車輛(60両)

C57 1 - 7(製造番号1769, 1770, 1798 - 1802)

C57 15 - 32(製造番号1869 - 1878, 1882, 1889)

C57 45 - 72(製造番号1898 - 1907, 1919 - 1925, 1961 - 1965, 1968 - 1973)

C57 153 - 159(製造番号2679 - 2685)

汽車製造(5両)

C57 8 - 12(製造番号1500 - 1504)

三菱重工業(106両)

C57 13, 14(製造番号212, 213)

C57 41 - 44(製造番号225 - 228)

C57 73 - 86(製造番号237 - 242, 245 - 249, 251 - 253)

C57 109 - 152(製造番号259 - 286, 307 - 322)

C57 160 - 169(製造番号346 - 355)

C57 170 - 201(製造番号503 - 534)

日立製作所(30両)

C57 33 - 40(製造番号941 - 948)

C57 87 - 108(製造番号1062 - 1083)

製造期による相違[編集]


1次形のC57 44。岩見沢機関区にて(昭和49年)

1次形 (C57 1 - 138)

1937年(昭和12年)から1940年(昭和15年)の間に製造された基本形である。従台車とテンダー台車がともに一体鋳鋼製とされた。

2次形 (C57 139 - 169)

1940年(昭和15年)から1942年(昭和17年)にかけて製造。第二次世界大戦の開戦により、資材・工程の削減をやむなくされた。組み立て式従台車を使用し、テンダー台車枠が板枠に変更された。基本的には1次形のままで性能に大きな差はない。この形式の別名でもある「貴婦人」とは1次形と2次形を指している。

1次形と2次形の間で炭水車を振り替えたケースもある(C57 120, 121, 135, 145, 148など)。

3次形 (C57 170 - 189)

1946年(昭和21年)製造。戦後の旅客用機関車の不足を補うために製造された。設計期間がなかったことから2次形からの大幅な改設計は見送られた。それでも先輪がD52形用の流用であるディスク形となったり、コンプレッサーからの空気放熱管がランボード下に収められるなどの相違点が見られる。また、砂箱キセ前面が1次形や2次形と比べ傾斜している。

4次形 (C57 190 - 201)

1947年(昭和22年)製造。3次形が2次形の基本をそのまま踏襲したのに対し、本グループでは戦後形C59形の設計思想を取り入れた大幅な改良が施されている。キャブ(運転室)が密閉式となり、デフレクター前部上端は45度に切り取られ、炭水車は船底形となり、ボイラーも板厚を増したものになるなど改良され、C59形によく似た外観となった。また、動力逆転機も装備されたが、燃焼室の採用は見送られている。外観の変化が比較的大きかったことについては、均整美が失われた、とするものと、近代的で力強い、とする両論がある。

後年の改造

九州地区ではC55形同様に除煙板を小倉工場製の切り取り形除煙板(門デフ)に交換したものが有名であるが、この他にも煙室前部角の腐食対策として丸形から角形への改装、重油併撚化したもの、などがある。

特徴的なものとしては11号機の運転台側面への明かり窓増設、77号機の宇佐美式弁装置試用(1954年)などがある。

外地向けのC57形[編集]

「zh:台鐵CT270型蒸汽機車」も参照

かつて日本が領有していた台湾の台湾総督府鉄道においては、1942年(昭和17年)から1943年(昭和18年)の間に川崎車輛と日立製作所で、鉄道省の2次形に準じて6両が製造され、同じくC57形 (C57 1 - 6) として使用された。太平洋戦争後は台湾鉄路管理局が引き継ぎ、CT270型 (CT271 - 276) と改称され、1982年(昭和57年)まで使用された。また1953年(昭和28年)にアメリカ合衆国の援助で8両が日立製作所で製造され、追加輸出された。その戦後形の8両 (CT277 - 284) は整備の関係で戦前に台湾に渡っていたグループと仕様を揃えるため特別に2次形をベースにして生産(カウキャッチャーの取り付け、ディスク先輪、やや大型化された炭水車など細部の仕様変更あり)、これが日本で最後に製造された国鉄形蒸気機関車となった。


製造の状況は次のとおりである。


1943年

日立製作所:C57 1, 2 → CT271, CT272(製造番号1512 - 1513)

川崎車輛:C57 3 - 6 → CT273 - CT276(製造番号2862 - 2865)

1953年

日立製作所:CT277 - CT284(製造番号12102 - 12109)

運用[編集]


C57 38が牽引する室蘭本線の客車列車(昭和49年)


C57 139 準鉄道記念物。名古屋機関区所属機、お召し列車18回牽引。お召し装備での復元(リニア・鉄道館、2013年)

四国を除く全国各地で優等旅客列車の牽引を中心に使用された。


特に軸重制限からC53形やC59形などの大型旅客用蒸気機関車が入線できなかった熊本以南の鹿児島本線や長崎本線では、1942年に関門トンネル開通で長崎駅まで延長運転された特急「富士」(戦局の悪化等の理由で翌年博多駅発着とされ、1944年3月に廃止)や戦後の特急「かもめ」「さちかぜ」「平和」「さくら」に代表される優等列車の牽引にも充当された。


また、北陸本線(今庄駅 - 直江津駅間)、信越本線の“海線”区間(直江津駅 - 柏崎駅 - 長岡駅 - 新津駅 - 新潟駅間)、羽越本線(新潟駅 - 新発田駅間の白新線を含む)などのような全国各地の地方幹線(や亜幹線)でも、急行などの優等列車を牽引した。


北海道でも、戦後の1960年代中期までは小樽築港機関区所属機や釧路機関区所属機が、小樽駅 - 札幌駅 - 滝川駅 - 富良野駅 - 帯広駅 - 釧路駅間を、函館本線 - 根室本線経由でロングラン運用されるなどして活躍した。また、宗谷本線でも、蒸気機関車時代の晩年には、それまで同線の旅客列車の牽引で活躍していた旭川機関区配置のC55形の老朽化が進んだことから、その置き換えとなるDD51形ディーゼル機関車の両数が揃うまでの間、本州や九州などから3両の本形式が転属し(最初に宗谷本線で使用されたのは1973年に旭川機関区に転属してきた87号機で、1974年8月夏頃まではこのC57 87が、最後の2両になったC55形(30・50)との共通運用で使用され、このC55形2両が全般検査期限切れとして運用離脱した9〜10月には、九州から転属してきた130・186が代わって運用に就いた。しかしこれらも、DD51形の増備が進んだ結果、1974年12月8日をもって運用から離れ、翌1975年2月に廃車された。


運用前期の廃車については、C57 73・74・99・162が太平洋戦争終戦前に戦災に遭い、1949年(昭和24年)3月29日付けで廃車となっているほか、C57 106は1961年(昭和36年)8月29日に羽越本線新津駅 - 京ヶ瀬駅間の踏切でトレーラートラックと衝突大破して同年11月18日付けで廃車。C57 90は1963年(昭和38年)3月16日に北陸本線能生駅 - 筒石駅間で発生した地滑りで流入した土砂に埋まり、同年6月18日付けで廃車となっている。


性能・保守面の良さを買われて長く活躍し、国鉄の旅客用蒸気機関車の代名詞となった。全長に比べてボイラが細く見え、スタイルが美しいとの理由で「貴婦人」の愛称で親しまれた。1953年にはC57 126がそれまで東京鉄道管理局のお召し列車専用機であったC51 239に替わって就役しているなど、各地で無煙化になるまでの間お召列車の牽引実績を残すなど、平坦線を中心に運転·保守両サイドから使い勝手が良いと高く評価され、戦後、老朽化が目立ち始めたC51の代替としてC57の早期転入を求める声が多かったり、昭和35年頃、輸送力強化とC51の淘汰促進のため、電化で余剰になったC59を改造したC60が配属される管理局や機関区では、C57を手離すことを渋る声が上がった。


昭和30年代以降、特急・急行列車の無煙化が進むと普通列車の牽引に回ったが、大半が蒸気機関車の最終期まで残り運用された。晩年になってもディーゼル機関車の不調や両数不足などで急行列車牽引の機会があり、寝台特急の牽引事例もあった。また、日豊本線や播但線、千歳線などでは、貨物列車の定期運用もあった(千歳線では、主に重量貨物列車の補機として使用)。


本州の東日本地区において最後まで本形式が運用されていた羽越本線では、1960年代前半に定期急行牽引任務からは外れたものの、1972年10月のダイヤ改正時に電化が完成するまでは、大阪駅 - 青森駅間の臨時急行「きたぐに51号」の新潟駅 - 秋田駅間(白新線経由)を牽引(1968年10月のダイヤ改正時=いわゆる“ヨン・サン・トオ”から1972年9月末日まで)するなど、普通列車を中心に、臨時急行列車や荷物列車などの牽引機として活躍した(ただし、羽越本線での普通列車と荷物列車の牽引については、同線の電化開業半年前の同年3月のダイヤ改正時までに、全てD51形、またはDD51形に置き換えられている)。


1972年(昭和47年)10月14日・15日に鉄道開通100年を記念して汐留駅 - 東横浜駅間に運転された「鉄道100年記念号」の牽引には、当時紀勢本線で稼働中の7号機が上京してその任にあたっている。同機は和歌山県で現在も静態保存されている。


運用後期でもお召し列車に用いられ、1972年(昭和47年)5月の新潟植樹祭の際に、当時新津機関区所属のC57 1が羽越本線の新津駅 - 村上駅間で牽引したり、1973年(昭和48年)4月に第24回全国植樹祭が宮崎県にて催された際に日豊本線におけるC57 117が牽引するお召列車が4月9日に西都城駅 - 宮崎駅間、10日に高鍋駅 - 宮崎駅、12日に宮崎駅 - 延岡駅間にて運行された。同時この一連のお召列車運行は、日本国内における蒸気機関車牽引による最後のお召し列車運行となった[3]。


日豊本線では、晩年の延岡以南における優等列車の牽引はDF50形ディーゼル機関車に置き換えられていたが、DF50形が故障し予備機のやりくりがつかなくなった場合など、車両運用の都合上で突発的に急行列車や時には寝台特急「富士」「彗星」を牽引することもあり、一例として1973年5月9日の上り寝台特急「彗星」を本形式が重連(前位機は66号機)で牽引していた姿が季刊誌『国鉄時代』2008年11月号 AUTUMN Vol.15(ネコ・パブリッシング)に掲載されており、これは国鉄線内で蒸気機関車が定期特急列車を牽引した最後の事例とされる[4]。1973年(昭和48年)10月から、日豊本線の急行列車、下り「日南3号」の宮崎駅 - 都城駅間の牽引に使用された。この列車はすでにDF50形ディーゼル機関車に置き換えられていたが、寝台特急の増発による車両運用の都合上、再びC57形が使用されることとなった。この運用は翌年1974年(昭和49年)3月まで続き、これが国鉄で蒸気機関車が牽引する優等列車としては最後のものとなった。


1975年(昭和50年)、NHKは当時の人気アイドルであった歌手の山口百恵と漫画家の加藤芳郎が出演する、蒸気機関車を扱った特別番組を制作した。このロケのため運転された列車には岩見沢第一機関区に所属していたC57 135が使用され、10月20日午前11時4分の室蘭駅発岩見沢駅の普通列車を牽引した。その年の12月8日に同じ区間を走った国鉄D51形蒸気機関車がSLの最終運行となるはずだったが、国鉄本社がセレモニー付きのSLラストランを行うよう指示。 そのC57 135が再び牽引することとなった。午前7時50分の出発は国鉄室蘭吹奏楽団が『鉄道唱歌』で見送り、徹夜組を含めて3000人が来駅したうち、定員の3倍にあたる2000人が乗車[1]。室蘭駅 - 岩見沢駅で国鉄最後の蒸機牽引旅客列車となる225列車を牽引した。同列車は本来はD51形を使用することになっており、最終日の12月14日のみ特別措置としてC57形牽引となった。


「貴婦人」の愛称について[編集]

本機の愛称である「貴婦人」だが、そもそもの由来は急行旅客用テンダー機関車として、C51形以来の標準である1,750mm動輪を装備するが、それに対して、それまでのC53形、C55形よりも細いボイラを搭載しているため、脚の長い整った容姿の女性に例えてつけられたものである。


しかし、C57形全車を「貴婦人」とするかには異論があり、準戦時設計となった2次形では蒸気ドームが拡大され、戦後型の3次形以降は補器類も見直されて厳つくなったため、「貴婦人」の愛称にはふさわしくないともいわれる。結果として次のような定義がなされている場合がある。


原設計の1次形のみ。

蒸気ドーム以外の基本設計がほぼ共通の2次形まで。

ボイラ設計が共通の3次形まで。

C57形全車を「貴婦人」としている文献もあるが、その由来の元であるボイラの設計が変更された4次形は含まないのが普通である。また、4次形は重装備に加え、製造時すでにC59形が登場しており、C59形に似た外観及び密閉式運転席やD51形の戦中型と同様の舟底式炭水車の採用など、別形式と言っても良い改良が行われているなどの理由に加え、導入当初から山あいの亜幹線での使用となったため、正反対の「山男」や「戦後型C57」と例えられることもある。


保存機[編集]

動態保存機[編集]

現在、西日本旅客鉄道(JR西日本)に所属する1号機と、東日本旅客鉄道(JR東日本)に所属する180号機の2両が動態保存されている。いずれも本線運転用に整備され、車籍を有している。因みに、1号機は車籍を一度も抹消されていないが、180号機は1969年(昭和44年)に廃車後、1999年(平成11年)に車籍の再登録を受けた。


1号機は、日本国有鉄道→JRにおける蒸気機関車の恒常的保存運転の嚆矢と呼ばれ、2006年(平成18年)に、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」の物件として、準鉄道記念物に指定された。


詳細は「国鉄C57形蒸気機関車1号機」および「国鉄C57形蒸気機関車180号機」を参照

また、台湾では同型の機関車CT273が2014年6月9日よりイベント列車として動態保存機としての運転を開始した[5]。同機は1984年に退役後は彰化県花壇郷の台湾民俗村に静態保存されていたが2010年2月2日に彰化扇形庫へ移送され、動態復元に向けた整備が約3年掛けて実施された。


2017年(平成29年)5月21日、JR西日本の1号機と台湾のCT273「仲夏宝島号」が姉妹列車協定を結ぶことが明らかとなる[6]。


SLやまぐちゆうゆう号として山口線内を走行する1号機(長門峡 - 渡川間、2009年9月)

SLやまぐちゆうゆう号として山口線内を走行する1号機(長門峡 - 渡川間、2009年9月)

 

SL村上ひな街道の牽引機として走行するC57 180(2014年3月)

SL村上ひな街道の牽引機として走行するC57 180(2014年3月)

 

彰化扇形庫に到着したCT273(2010年2月)

彰化扇形庫に到着したCT273(2010年2月)

 

SL春さきどり号として内房線を走行するC57 180(2009年2月)

SL春さきどり号として内房線を走行

2024年4月14日日曜日

国鉄C62形蒸気機関車

 



国鉄C62形蒸気機関車



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(引用編集)

C62形蒸気機関車

京都鉄道博物館のC62 2

京都鉄道博物館のC62 2

基本情報

運用者 運輸省→日本国有鉄道

西日本旅客鉄道

北海道旅客鉄道

製造所 日立製作所 (C62 1 - 21)

川崎車輛 (C62 22 - 36)

汽車製造 (C62 37 - 49)

製造年 1948年[1] - 1949年

製造数 49両[1]

引退 1973年

愛称 シロクニ

投入先 東海道本線・山陽本線

常磐線・函館本線

主要諸元

軸配置 2C2[1]

軌間 1,067 mm(狭軌)[1]

全長 21,475 mm

全高 3,980 mm

機関車重量 88.83 t[1]

動輪上重量 48.23 t(原形)[1]

44.59 t(軽軸重形)[1]

炭水車重量 56.34 t[1]

総重量 145.17 t

動輪径 1,750 mm[1]

軸重 16.08 t

(原形 第1・第2動輪上)

14.96 t

(軽軸重形 第1・第2動輪上)

シリンダ数 単式2気筒

シリンダ

(直径×行程) 520 mm×660 mm(原形)[1]

500 mm×660 mm(軽軸重形。ただし2.構造で述べられているとおり軽軸重型でボアダウンを実施したという一次資料は存在せず他形式と混同された可能性が高い)[1]

弁装置 ワルシャート式

ボイラー圧力 16.0 kg/cm2

(≒1.57Mpa)[1]

ボイラー水容量 9.87 m2[1]

大煙管

(直径×長さ×数) 140 mm×5,000 mm×35本[1]

小煙管

(直径×長さ×数) 57 mm×5,000 mm×94本[1]

火格子面積 3.85 m2[1]

全伝熱面積 244.5 m2[1]

過熱伝熱面積 77.4 m2[1]

全蒸発伝熱面積 167.1 m2[1]

煙管蒸発伝熱面積 147.4 m2

火室蒸発伝熱面積 17.5 m2

燃料 石炭

燃料搭載量 10.0 t[1]

水タンク容量 22.0 t[1]

制動装置 空気、自動空気ブレーキ

最高運転速度 129 km/h[1] (日本最速の蒸気機関車)

最大出力 2,163 PS

動輪周出力 1,620 PS

シリンダ引張力 13,870 kg

粘着引張力 12,058 kg

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国鉄C62形蒸気機関車(こくてつC62がたじょうききかんしゃ)は日本国有鉄道(国鉄)の旅客用テンダー式蒸気機関車である。


1948年(昭和23年)から翌1949年(昭和24年)にかけてD52形蒸気機関車の改造名義で49両が製造され、その牽引力や重量から、輸送量を要求される主に平坦地や軟弱地盤の少ない東海道本線、呉線、山陽本線など主要幹線の優等列車牽引に使用された。通称シロクニ。松本零士の漫画作品『銀河鉄道999』に登場する主要列車「999号」の牽引車のモデルとして知られる(後述)。


改造までの経緯[編集]

第二次世界大戦当時、国鉄(当時は運輸省)には戦時物資輸送用の貨物用蒸気機関車としてD51形・D52形が大量に在籍していたが、終戦とともに軍事輸送の廃止と工業生産の低下で貨物需要が激減したため、これらの機関車は大半が余剰となった[1]。一方で、生活物資の買出しや戦地・植民地からの復員・引き揚げ輸送の影響で旅客需要が激増し、戦争中に製造が中止されていた旅客用蒸気機関車は極端に不足していた[1]。特に幹線は逼迫(ひっぱく)しており、大型の旅客用蒸気機関車であるC57形・C59形の増備が急がれたが追いつかず、また燃料である石炭の質の悪化による性能低下を補うべく、より大型で強力な重量旅客用機関車を製造する必要に迫られた[1]。しかし占領軍の方針や資材の不足もあり機関車の新製は困難だった[1]。


そこで、GHQ側担当将校デ・グロートの助言に従い、余剰となっていた貨物用機関車のうち一部の車両のボイラーを旅客用機関車に転用することとし、ボイラー以外の部分は既存の旅客用蒸気機関車C57形・C59形の設計を流用して組み合わせた機関車を『改造』名義で製造することになった[1]。財政難で発注がキャンセルされたC57形・C59形(戦後型)のメーカー仕掛部材救済が目的の一つであり、鋳造台枠を削って無理やり収めた2軸従台車の設計や、本形式の49両という中途半端な製造両数もこれに起因している。なお、D52形より転用されたボイラーは、戦時製造のため信頼性が低く、少数の早期廃車機を除いては後に新製ボイラーに換装されている。


占領軍 (GHQ) のインフレ抑制政策(ドッジ・ライン)の指示は、本形式とC61形がほぼ全機ロールアウトする後の1949年(昭和24年)2月のことであり、巷間言われるような関係はない。


これにより、D51形からC61形、D52形からC62形が改造された。C61形は、C57形相当の乙線規格の機関車で、C62形はC59形に代わる特別甲線での特急列車・急行列車の牽引を目的に改造されたものである[1]。


構造[編集]

機関車全長は、炭水車を含めて21.48 m。重量は145.2 t。走り装置はC59形を基本とし、動輪直径もC59形と同じで国内最大となる1,750 mm。軸配置は、従来の2C1(先輪2輪 + 動輪3輪 + 従輪1輪の意味)のパシフィック形では軸重が特甲線の上限(16.08t)を超過してしまうため、従輪を2軸とした2C2(先輪2軸 + 動輪3軸 + 従輪2軸の意味)のハドソン形として動軸の軸重を許容上限である16.08 t 以下に収めた。また、この従台車の支点の位置を変え[注 1]、先台車の板バネ枚数を16枚から17枚に増やしバネ定数を変更することで動軸の軸重を甲線対応の14.9 t へ引き下げることが可能[注 2]で、この軽軸重化は新製時から軽軸重形として製造された8両(C62 19 - 21・45 - 49)と[1]、完成後の配置機関区の変更の際に軽軸重化されたものとを合わせて26両に施工された。これら軽軸重型は白河以南の東北本線や、仙台以南の常磐線で使用されたほか、末期には、電化の進展で余剰を来たした通常形を軽軸重形に改造の上で、軽軸重形の需要があった函館本線に転用している。弁装置は国鉄制式機の通例どおりワルシャート式であるが、動力逆転機が標準装備されていた。


軽軸重形は空転防止(出力抑制)のため、シリンダ内にスリーブを挿入してのボアダウンが併せて施されたとの通説があるが、初期に軽軸重型に改造されたものはボアダウンはされておらず、昭和28年発行の鉄道技術発達史にも軸重の変更以外の記述がない。また最初に函館本線に転属したC62 3にもこの対策は施されず、軽軸重化工事のみで運用されていた。また、他の転属機についてもボアダウンしたとの改造記録はなく、機関士の使用感が違ったとの記録もない。同じくD52形から改造されたD62形の例と混同され、広まった可能性が指摘される。


本形式の製造は、治具や生産ライン、それに在庫の仕掛り部材の関係で、C59形の製造に携わった日立製作所笠戸工場(21両:C62 1 - 21)、川崎車輌兵庫工場(15両:C62 22 - 36)の2社が当初指定され、これに続いて車両需給の関係でC61形の発注をキャンセルされた汽車製造大阪製作所(13両:C62 37 - 49)がそれに対する救済措置の意味合いを含め、追加で指定された。この経緯から、本形式の設計は試作機としての役割を持つC62 1 - 4を担当した日立製作所の意見が強く反映されており、日立製量産機と川崎車輌製はこれに準じて製造された。これに対し、汽車製造が担当したC62 37以降は、基本的にはC62 36以前と共通設計ながら、前後で同一形状の蒸気溜りと砂箱のキセや、弁装置の調整など、C59形の設計に参加した髙田隆雄ら同社技術陣の美意識によって、日立・川崎製とは異なる個性の強い外観とされた。


ボイラーはD52形からの転用であるため缶胴寸法は同一で、煙管長は5,000 mm、燃焼室付きである。


炭水車は当初C59形の戦後形に用いられたものと同一の、全溶接構造の船底形車体に、石炭10 t および水22 t を搭載可能とする10-22形が連結されていた。C62 2 - 4で旧満鉄向け機材の転用による自動給炭機(メカニカルストーカー、動力部は炭水車に装備)装備試験を行った結果、好成績が得られたため、国鉄・汽車製造・ダイハツ工業の共同による動力部を機関車取付けとしたものが開発されたことからC62 5以降でこれが制式化され、炭水車も10-22S形(Sはストーカーを意味する)に変更された。ただし、初期製造分は自動給炭機の完成が遅れ、非搭載のまま就役している。自動給炭機は、スクリュー式コンベアでカマの入口まで送り、火室に蒸気で吹き込む構造になっていた[2]。


本形式は大直径動輪の上、破格の大型ボイラーを搭載したため、車両限界への抵触が心配された。そこで、煙突は太く短めのものとし、蒸気溜りと砂箱を覆うキセも幅広で扁平なものとなった。このため加減弁の開閉装置は通常のリンク式が使用出来ず歯車式とした[注 3]が、開閉が重く振動音が大きいなど問題があり、後に改良型のリンク式として解決を図った。また、汽笛も限界内に収まるよう、後方に傾斜して取り付けられている[1]。


また、自動給炭機を取り付けたために運転室が高くなり、頭が天井につかえる感じになった、という証言もある[2]。


ストーカー使用前提で定められた燃焼率600kg/m2時の最大出力は1,620PSで、これは母体となったD52形の1,660PSに次いで日本国内では歴代第2位である。また、動輪周馬力で比較すると、本形式はC59形に比して1.2倍以上という圧倒的な高出力を実現している。実際に新造開始直後山陽本線糸崎 - 八本松間で実施された、ボイラに燃焼室を持たない長煙管の戦前型C59形との性能比較試験では、同一条件下で石炭消費量が20パーセント以上節約されるという好成績を収めている。これはC59形よりもC62形のほうが定格に対して低負荷となり缶効率が良いためである。


改番照合表[表示]

運転[編集]

1948年(昭和23年)から1949年(昭和24年)の間に完成したC62形49両は、当初、そのほとんどが各メーカーに近い機関区に新製配置された。これは落成直後は自動給炭機の完成の遅れから未装備の機体が多かった[3]ことに加え、納品後の不具合洗い出しや運用に当たる乗務員・各機関区の保守陣の習熟が目的と見られる。


具体的には、日立製の21両は浜松機関区に配置されたC62 6と後期製造の軽軸重形3両(C62 19 - 21、宇都宮機関区)を除く全17両が岡山以西の各機関区に、川崎車輛兵庫工場製の15両はやはり浜松に配置されたC62 28以外の全14両が下関から梅小路までの東海道・山陽本線の各機関区に、そして汽車製造大阪製作所製の13両は後期製造の軽軸重形5両(C62 45 - 49、尾久機関区)以外の8両は岡山、宮原、梅小路の3機関区にそれぞれ分散配置されている。


東海道本線・山陽本線(呉線を含む)[編集]

原形の41両は静岡(1両:C62 5)[3]、浜松(2両:C62 6・28)[3]、梅小路(6両:C62 31・32・34・40・43・44)[3]、宮原(4両:C62 35・36・41・42)[3]、姫路第二(3両:C62 29・30・33)[3]、岡山(6両:C62 17・24・25・37・38・39)[3]、糸崎(7両:C62 2・3・4・8・12・15・22)[3]、広島第二(5両:C62 1・7・9・14・26)[3]、下関(7両:C62 10・11・13・16・18[4]・23・27)[3]の各機関区に分散配置され、東海道本線・山陽本線にて既存のC59形と共通運用で運転が開始された[1]。当初は敗戦直後の困窮がまだ続いていたこともあり、長大編成の急行・普通列車の牽引に充当された[1]。なお、東北本線・常磐線の輸送力強化のため、1949年(昭和24年)6月までに初期製造のうちの11両(C62 7 - 11・22 - 24・37 - 39[注 5])が軽軸重形に改造のうえ尾久、宇都宮、白河、水戸の各機関区に転出している[1][3]。


1950年(昭和25年)10月1日ダイヤ改正で、東京 - 大阪間の特急「つばめ」・「はと」を従来より1時間短縮した8時間で運転することとなり、運転曲線と牽引する客車の換算両数が再検討され、C59形では性能的に限界に近いと判断された。このため、当時東海道本線・山陽本線で運用されていたC62形各車は浜松、名古屋、梅小路、宮原の4区に集中配属となり、中でも特に調子の良いものが宮原、浜松の両機関区[注 6]に集められ、これらを整備の上、当時非電化の浜松 - 京都間から戦前に電化されていた大阪駅までの牽引に充てることとなった。宮原機関区では配属車両の中でもC62 29・35をはじめとする好調機[3]、普通機、C62 2などの不調機と、識別のためにそれぞれナンバープレートの色を変更した上で3グループに分けられ、トップグループから優先的に急客牽引に充当された。


本形式は、上述のごとき特急運用でその性能をいかんなく発揮し、列車運転時分の短縮に貢献することができた。特に宮原機関区では、自動給炭機(スクリュー状の送りねじを回転させて給炭する機構の制約上、投炭時に石炭くずが発生しやすい)の使用を控え、人力で投炭することにより、乗客にとって不快なシンダ(煙突から排出される石炭の燃えカス)の発生を抑えたと伝えられている。本形式の大きな火格子面積や、関ヶ原越えを含む厳しい線路条件に求められる燃料量などを考慮するならば、この人力投炭は、きわめて過酷な労働であったと推察される。


東海道本線の電化区間が名古屋、稲沢、米原と西に伸びるに従って、本形式をはじめとする本線用蒸気機関車の運用区間は縮小されていったが、1956年(昭和31年)11月19日ダイヤ改正における東海道本線全線電化完成により、全区間でその座をEF58形電気機関車に譲るまでは非電化区間で特急「つばめ」・「はと」の牽引機を務め、1954年以降は名古屋機関区と宮原機関区所属車の一部に重油併燃装置を取り付けて特急「つばめ」・「はと」の牽引定数をそれまでの500 t から550 t に引き上げた[5]。


東海道本線で運用されていた本形式は、電化の進行に伴い7両(C62 2・3・27・30・32・42・44)が軽軸重形に改造のうえ後述する北海道へ転出したが[1]、多くは梅小路、広島第二、さらに下関などの機関区へと転属し[6]、C59形とともに山陽本線を主な運用区間として京都 - 博多間の特急「かもめ」や寝台特急「あさかぜ」・「さちかぜ」・「はやぶさ」・「みずほ」、急行「きりしま」・「筑紫」・「雲仙」・「阿蘇」などの、当時を代表する優等列車の牽引に充当された[1]。だが、1958年(昭和33年)8月14日に岩国市付近の踏切にて、上り特急「かもめ」を牽引していたC62 4と進駐軍のトレーラートラックが衝突する事故が発生し、同機は1960年(昭和35年)1月27日付でC62形最初の廃車機となっている[3]。


1956年(昭和31年)11月19日ダイヤ改正の寝台特急「あさかぜ」新設後も山陽本線を通る優等列車は増強され、1958年(昭和33年)10月1日ダイヤ改正に「あさかぜ」用として登場し、以後1959年(昭和34年)7月20日ダイヤ改正での寝台特急「さくら」運転開始などで増備が続けられた20系客車も姫路 - 下関間では本形式が牽引した。しかし、特急「かもめ」が1961年(昭和36年)にキハ82系の導入で気動車化され、寝台特急や急行列車の牽引区間も幹線電化の進展によって姫路駅、岡山駅、ついで広島駅以西と次第に狭められていき、1964年(昭和39年)10月1日には山陽本線の全線電化完成に伴い定期特急運用が一旦消滅[1]、下関機関区配置車は全車が電化完成前日の9月30日に広島機関区(旧広島第一機関区)・広島運転所(旧広島第二機関区)へと転属[注 7]した[7]。広島機関区・広島運転所の配置車は急行「音戸」の広島 - 下関間など電化から漏れた山陽本線西部・岩徳線の一部列車に充当され[8]、1965年からは山陽本線の補助線として特別甲線規格で整備されていた呉線を受け持つため蒸気機関車の配置区として残されていた糸崎機関区に広島機関区・広島運転所から本形式が順次転属、呉線経由で運転されていた急行「安芸」などを糸崎 - 広島間で牽引する運用へC59形とともに充当され続けた[9][1]。もっとも、これらの運用に充てられた本形式も急行「音戸」の広島 - 下関間牽引は1966年(昭和41年)9月で電気機関車に置き換えられ[10]、1967年(昭和42年)には岩徳線運用のD51形置き換えにより[11]広島機関区・広島運転所の配置車が全廃となるなど次第に数を減らし、呉線直通列車以外の山陽本線運用は糸崎機関区からの機関車回送を兼ねて残された糸崎 - 広島間の下り普通列車1本と一部の臨時列車を除き1968年(昭和43年)10月1日ダイヤ改正までに消滅した[12]。


呉線の運用では、1967年(昭和42年)10月1日の常磐線全線電化(後述)で余剰となった軽軸重形5両(C62 23・37・46 - 48)が同年10月上旬から順次平機関区から糸崎機関区に転属[1][13]、同区で廃車対象となっていた重軸重形5両(C62 5・14・18・25・34)を置き換えた一方で軽軸重から重軸重形への改造は行われないまま使われていたが、編成重量が呉線内の単機牽引定数一杯となる12両編成、460 t であった急行「音戸」を牽引した際には16‰前後の勾配区間が連続する安登駅周辺で空転が頻発したため、1969年1月から編成重量の比較的軽い[注 8]「安芸」は重軸重・軽軸重形問わず本形式の牽引が基本となる一方[注 9]、「音戸」などの重量列車牽引はより軸重の重いC59形限定運用と分離され[14][15]、同年中には軽軸重形3両(C62 46 - 48)が検査期限の都合もあり廃車となった。さらに1970年(昭和45年)3月にはC62 41が検査期限切れで廃車となり[3]、糸崎機関区では本形式に運用の余裕がなくなったことから一部の旅客列車運用をD51形が代走することもあった[16]。呉線の電化工事は1970年(昭和45年)8月に完成、同月22日からは一部の蒸気機関車牽引列車に電気機関車を連結して訓練を行う電蒸運転、9月15日からは上り「安芸」などで電機単独運転も行われるようになり、山陽本線・呉線での運用は1970年(昭和45年)9月30日[注 10]が最後となった[17][18]。最後まで運用された5両のうち2両(C62 15・16)は小樽築港機関区へ転属[1]、C62 17は稲沢第一機関区を経て名古屋市内へ保存の手配がとられたが、常磐線電化による転属車で最後まで残った2両(C62 23・37)は廃車となり、糸崎機関区からは本形式の配置がなくなった。これをもって、C62 1の新製配置以来22年に渡った、東海道・山陽本線系統での運用に終止符が打たれた[1]。


東北本線・常磐線[編集]

まず、1949年(昭和24年)3 - 4月に落成した軽軸重形の8両が尾久(5両:C62 45 - 49)、宇都宮(3両:C62 19 - 21)の各機関区に分散配置された。さらに、山陽本線沿線の機関区に新製配置された初期製造車のうち、11両が軽軸重形に改造の上、同年6月までに尾久(2両:C62 38・39)、宇都宮(1両:C62 8)、白河(3両:C62 9 - 11)、水戸(5両:C62 7・22 - 24・37)の各機関区に転属、[1][3]、東京以北区間でのC62形運用はこれら19両で開始された[1][3]。


運用開始から約半年を経た1949年末から1950年(昭和25年)9月にかけて尾久・宇都宮・水戸配置車は白河機関区と平機関区へ転配が行われ[3]、白河機関区の11両(C62 8 - 11、19 - 23・37・38)は東北本線の白河以南[注 11]、平機関区の8両(C62 7・24・39・45 - 49)は常磐線の平以南で急行列車・長距離普通列車を中心に運用されていた。その後東海道本線の電化が進み、1955年(昭和30年)以降にC59形が白河以南の東北本線用として宇都宮機関区へ転属、さらに仙台以南まで運用区間が拡大されたことから白河、福島第一、仙台の各機関区へも配属されることとなり、本形式はC59形の東北本線転用が始まる直前の1954年(昭和29年)9 - 11月にかけて白河機関区所属車が尾久機関区に転配、常磐線中心に運用されることとなり、入線区間も平以北へ伸び仙台まで列車を牽引することとなった。なお、1960年代の初めごろまでは、朝・夕の通勤・通学時間帯に運転される東京駅乗り入れの常磐線の普通列車(正確には、東京側の始発・終着駅は新橋駅)を牽引していたこともある。また、臨時列車の牽引では高崎線にも入線したことがあった[19]。


1958年(昭和33年)10月1日ダイヤ改正からは新設された特急「はつかり」の上野 - 仙台間(常磐線経由)の牽引機に抜擢され[1]、「はつかり」を受け持つこととなった尾久機関区へは平機関区から2両(C62 7・39)が転属、特急運転に備えてC62 7・10・11・20・22・37の逆転機を動力逆転機から手動のねじ式逆転機へと改造した。動力逆転機のまま残ったC62 8・9・19・23・38・39と平機関区配置車(C62 24・45 - 49)も整備上の問題から逆転機駆動部のカバーを外しただけでなく、上野 - 仙台間を機関車交換なしの通し運用とすることから、炭水車の上部に囲いを設け石炭搭載量を増す改造が尾久・平機関区配置車に実施された[注 12][20]。特急「はつかり」は、運転開始からわずか2年後の1960年(昭和35年)12月10日に新開発のキハ80系気動車へ置き換えられ、一時は本形式による特急仕業が消滅したが、尾久・平の両機関区に引き続き本形式が配置され、「みちのく」・「十和田」といった客車急行牽引の主力機として重用された。


もっとも、1963年(昭和38年)に常磐線の平駅(現・いわき駅)以南の交流電化工事が完成し、尾久機関区配置の本形式による運用はEF80形電気機関車によって置き換えられた[1]。このため、常磐線系統における本形式の運用は、以後、平 - 仙台間のみとなった。電化の進展により余剰となった尾久機関区配置の一部(C62 7・8・9・11・19・20)は水戸機関区を経て東北本線の仙台 - 青森間で旅客列車の輸送力を増強、C60形を東北本線から奥羽本線に転属させる検討が行われていた仙台機関区へ転属、同じ目的で小樽築港機関区から42も仙台に転属し、一旦は仙台機関区配置のC60形・C61形運用の一部を置き換える形で平 - 仙台間を中心に活躍を始めて急行「十和田」1往復や「おいらせ」も牽引したが[21]、仙台機関区では本形式配置後燃料や潤滑油消費の増大が車両管理側から指摘され、また当時の長町 - 盛岡間では本形式を上回る自重のD62形が運用され、本形式とほぼ同じ軸重のC60形は青森まで運用されていたものの、自重の大きい機関車の入線が増えることによって保線側から軌道への悪影響が懸念されただけでなく[注 13]、既にDD51形ディーゼル機関車の量産が始まっていたこともあり、仙台以北での本格的な運用実現には至らなかった。そのため、仙台機関区に配置された本形式は一度転属させたC60形を戻すといったことも行われて1964年(昭和39年)に4両(C62 8・19・20・42)を廃車、残りの3両(C62 7・9・11)も1965年度中に廃車となっている[22]。


その後、1965年の東北本線盛岡駅電化の際に急行「北斗」の格上げで新設された20系による寝台特急「ゆうづる」(5・6列車)は所要時分短縮のために平坦な常磐線経由で運転されることとなり[注 14]、非電化のままの平 - 仙台間については平機関区配置の本形式がその牽引機に抜擢されることとなった[1]。以後、本形式の全廃までの間に本形式が配置された各線区で寝台特急が新規設定される事例はなかったため、この「ゆうづる」は本形式が牽引する最後の定期特急列車となった。


なお、この「ゆうづる」には黒岩保美デザインのヘッドマークが掲げられていた。「夕日をバックに飛翔する鶴」を描いたこのマークは、同列車が最後の蒸気機関車牽引特急となることを念頭に置いて、本形式に装着した際に最も映えるように配慮してデザインしたことを、後年になって黒岩本人が証言している。彼は、計画段階で列車重量と経由路線からこの新設寝台特急がC62形牽引となることを推定し、しめたと思ったと述懐している。


新設時の「ゆうづる」は当時最新かつ軽量構造の20系客車を用い、現車13両、換算41両、つまり総重量410 t と比較的軽量の編成となっており、新製時の性能査定に基づいたダイヤ編成では特に問題なく運用可能のはずだった。だが、運転開始時点でC62形は既に車齢16年以上が経過し、しかも平機関区へ配置されていた12両はいずれもコンディションが決して良好とは言い難かった。そのため、比較的平坦な常磐線とは言え、平から仙台までの150 km を無停車のまま2時間15分(上り:表定速度約67 km/h)で走破する、新製直後のグッドコンディションを前提とした性能査定に基づく厳しいダイヤ設定から、この「ゆうづる」は定時運行維持が困難と予想され、運転開始前の1965年9月に品川客車区配置の20系予備車を連ねた15両編成[注 15]を用い、田端操車場と青森駅の間で本運用に準じたダイヤでの試運転が実施された。この試運転の結果、発熱量約6,500kcal/hで、夕張・常磐・筑豊など各産地の異なるグレードの石炭を各機関区でブレンドした通常使用の石炭では火力不足から所定のダイヤでの運転が困難で、しかも仙台到達時点で石炭も水もほとんど使い果たすという非常に厳しい状況であることが判明した。このため営業運転の際には特にこの「ゆうづる」の運用(SL甲組 仕業番号1)に限り、北海道夕張産の、高カロリーかつ排煙の少ない良質粉炭とピッチを混合・成形したもので、乗務員からは特級(急)豆炭と呼ばれた発熱量8,000kcal/hの甲種練炭限定搭載として機関車性能の底上げが行われ、また、ダイヤ上もあらかじめ設定されていた3パーセントの余裕時分を最大限に活用することで、かろうじて定時運行の維持が図られた。


こうして老朽化した本形式を用いて限界ぎりぎりの運用を実施した「ゆうづる」も、運転開始から2年後の1967年(昭和42年)10月1日には同区間の電化完成でED75形電気機関車の牽引に切り替えられた。電化工事そのものの完成は同年7月30日であり、客車急行や一部普通列車は、順次ED75形の牽引となり、特急「ゆうづる」も下り5列車が8月20日よりED75形の牽引に切り替えられ、上り6列車牽引の本形式は203列車で平から仙台へ送り込むように変更された。だが、9月中旬に線内で起こった土砂崩れの影響で、電化に伴う新線切り替え区間が不通となったため、やむなく非電化の在来線に戻して列車運行を実施、この関係で「ゆうづる」は復旧作業中の約1週間にわたって全列車が本形式での牽引となった。その後、下り5列車はED75形牽引に戻ったが、ダイヤ改正前の9月30日まで上り6列車は本形式による牽引が維持された。


その後、平機関区に最後まで在籍した本形式12両は、状態が比較的良好な5両(C62 23・37・46 - 48)が呉線を担当する糸崎機関区へ転属[1]、不調気味の6両(C62 10・22・24・38・39・45)が1967年(昭和42年)11月24日に除籍、解体となった[3]。保存が検討された本形式ラストナンバーのC62 49は、一時保留とされ平機関区に保管されたが、結局、引き取り手が見つからず、1968年(昭和43年)6月13日に除籍、解体処分に付されている[3]。


函館本線[編集]


急行ニセコを牽引するC62形重連(1971年)

東海道・山陽本線の電化が進展しつつあった1950年代後半、北海道の函館本線で運行されていた対本州連絡急行は、特に急勾配と急曲線が連続する長万部 - 小樽間(通称:山線)でのD51形重連運用と、函館 - 長万部間(通称:海線)での高速運転により乗務・検修の双方に多大な負担を強いていた。前者の形式はストーカー非装備だったことから機関助士2人による人力投炭を強いられた。後者は振動と各回転部の異常磨耗で検修陣に負担がかかっていた[1]。


そこでそれらの諸問題の解決策として、所要両数に余裕が生じ、不調機から保留車が出始めたC62形を、軽軸重形に改造の上で転用投入する案が持ち上がり、まず1956年(昭和31年)9月15日にC62 3が梅小路から発送され[3]、苗穂工場に入場、軸重軽減改造の上で試験運行が実施された[1]。その結果は良好で、破格の大形機故に危惧されていた軌道負担増大の問題についても、保線側で充分対応可能な範囲に収まったことから、翌1957年(昭和32年)の初頭に好調機は山陽本線を担当する各区へ配置し、その選に漏れた不調気味の保留車・余剰車から函館本線へ転用する方針が決定[注 16]。こうして6両が選出され、D52形から流用されていた戦時設計による粗製濫造ボイラーの新製交換と、軸重軽減改造とを施工した後、小樽築港機関区へ転属の手続きがとられた[1][3][注 17]。[23] [24]


まず、1957年(昭和32年)2月に4両(C62 2・27・30・32)がC62 3とともに急行「大雪」の牽引(函館 - 小樽間)に充当された[1]。続いて3月に梅小路からC62 44、10月に宮原からC62 42が加わり、計7両が「大雪」・「まりも」・「アカシヤ」などの急行列車牽引に使用された[1][3]。


最も過酷な使用条件の山線区間の急行運用はD51形重連からC62形重連、または前部補機D51形と本務機C62形による重連に変更された。この運用では、除煙板に「つばめマーク」が取り付けられたC62 2が重連の先頭に立つことが多かった。これはファンサービスが目的ではなく、前補機は長万部駅でその日のうちに折り返して検修陣の待つ小樽築港機関区に帰着できるためである。つまり、翌日まで基本的に検修がノータッチとなり、しかも海線での高速走行を行う本務機と比較して、運用による負担が軽いため、後述のとおり東海道時代から不調気味で乗務員から信頼の薄いC62 2を前補機として限定運用することは、後述する検修責任者へのインタビューでの回答[25]にもあるように、検修側・運用側の両者にとって望ましかったとされる[注 18]。一方でC62 32・44は好調機と評価され、優先的に本務機の運用に充当されたことが知られている。急行「大雪」のC62形牽引時代末期には、通常期に客車が減車されたため、多客期以外の同列車では基本的に単機牽引となっている。


乗務員経験者のインタビューでは「小樽のC62は1両1両特徴がありました、2号機は息づかいが弱いというか力がなかった、3号機は安心して乗れるカマでした」[26]と答えており、また検修責任者も「2号機は蒸気騰がりが良くなくて、できるだけ函館までの往復仕業には投入しないようにいていた」[25]また「2号機の廃車を何度も札幌鉄道管理局に要請したが聞き入れてはもらえなかった、人気のある車両だったからでしょうか」とも答えている。


また、函館本線の七飯 - 大沼[注 19]間については、1966年(昭和41年)10月1日に下り線の上り勾配緩和のために建設された、通称:「藤城線」と呼ばれる下り線専用の新線が開通する前は、上下列車とも、渡島大野駅[注 20]・仁山信号場[注 21]を通る、仁山峠越えの従来線[注 22]経由で運転されていたが、下りの旅客列車のうち、優等列車をはじめとする編成の長い旅客列車については、本務機はC62形、後部補機はD52形、またはD51形という形で運転されていた。ただし、C62形牽引時代末期の急行「大雪」については、通常期には、前述のとおり減車されていたため、下り列車の仁山越えの区間でも、補機の連結なしの本形式による単機牽引だった。


しかし、1961年(昭和36年)10月1日ダイヤ改正(サンロクトオ)で急行「アカシヤ」が廃止されると、以後は客車急行の気動車化が進んでいく。さらに同ダイヤ改正で北海道初の特急「おおぞら」が新設されたことを契機に、函館 - 札幌間のメインルートが函館本線(小樽駅)経由から室蘭本線・千歳線経由に移行していく[1]。この時期には、間合い運用として函館 - 札幌間の夜行準急・急行「たるまえ」→夜行急行「すずらん」(いずれも室蘭本線・千歳線経由)の函館 - 長万部間や、函館 - 網走間(函館本線・石北本線経由)の夜行準急・急行「石北」[注 23]の小樽 - 旭川間の牽引も担当するとともに、優等列車ばかりでなく、函館本線の普通列車の一部も牽引した[1]。


1962年(昭和37年)10月1日ダイヤ改正では急行「大雪」が全区間C62形単機での牽引に変更され[1]、1963年(昭和38年)4月28日付でC62 42が仙台機関区に転出する[3]。同年6月1日には急行「大雪」が気動車急行「ライラック」(キハ56系気動車)に変更され、C62形の急行列車牽引は「まりも」の函館 - 小樽間と「たるまえ」の函館 - 長万部間のみとなり、山線での重連運転は急行「まりも」1往復のみに減少した[1]。1965年(昭和40年)10月1日ダイヤ改正では急行「まりも」が札幌駅を境に急行「ていね」(函館 - 小樽 - 札幌間)と「まりも」(札幌 - 釧路間)に系統分離された[1]。


1967年(昭和42年)10月1日ダイヤ改正での運用減に伴い[1]、1968年(昭和43年)2月20日付でC62 27が除籍・解体された[3]。さらに1968年(昭和43年)8月28日には小樽 - 滝川間が電化され、C62形の運用は再び小樽以南に縮小された[1]。同年10月1日ダイヤ改正(ヨンサントオ)では急行「ていね」が「ニセコ」に改称。この下り「ニセコ3号」、上り「ニセコ1号」の1往復(函館 - 小樽間)がC62形で最後の急行列車牽引となった[1]。同年10月18日付でC62 30が廃車となり[3]、小樽築港機関区のC62形は4両(C62 2・3・32・44)に減少した[1]。


1970年(昭和45年)には、好調故に本務機に多用され、走行キロ数が伸びていたC62 32・44がDD51形ディーゼル機関車への置き換え計画実施まで1年を残して全検周期に到達、検査を実施するよりも期限未到達の余剰車を軽軸重形へ改造および耐寒設備工事施工の上で転用する方が大幅に安価[注 24]であった。このため、当該2両はいずれも1971年(昭和46年)6月26日付で廃車となり[3]、代替機として呉線電化で余剰となり、検査期限まで1年以上期間が残っていた2両(C62 15・16)が糸崎機関区から転属した[1]。なお、両機の軸重軽減改造時には交換が必要な従台車はC62 32・44からの廃車発生品を流用し、さらにC62 16のテンダーについてはC62 32のものと交換した[3]。


そして1971年(昭和46年)、最後まで重連運転として残った急行「ニセコ」1往復(下り3号、上り1号)が7月18日・8月22日・9月15日の3回に分けて実施された三重連運転を最後にDD51形ディーゼル機関車に置き換えられ[注 25]、ついに終焉を迎えた[1]。最終日となった9月15日の牽引機は先頭からC62 2・3・16であった[1]。これに伴い、国鉄から蒸気機関車牽引の定期急行列車が消滅した[注 26]。


急行「ニセコ」運用から退いた後、C62 15・16が同年11月24日付で廃車・解体された[3]。C62 2は長万部 - 小樽間の普通列車運用に充当された後[1]、翌1972年(昭和47年)10月10日付で梅小路機関区に転属し、同機関区に併設された梅小路蒸気機関車館にて動態保存されることとなった[注 27][1][3]。C62 3は一時休車を経て、1973年(昭和48年)2月から函館本線の長万部 - 小樽間の臨時普通列車を牽引したが[1]、長万部 - 小樽間の完全無煙化により同年10月1日付で第一種休車となり、1976年(昭和51年)3月19日付で正式に除籍された[3]。C62 3は、小樽市の北海道鉄道記念館にて静態保存された[1]。


その他[編集]

以上のように本形式は優等列車を中心に第一線で華々しく運用されたが、お召し列車を牽引したことは一度もないまま終わっている。特に東海道本線・山陽本線系統では、現場の信頼も極めて高かったC59形がその任務にあたった。そのため、お召し列車牽引機としての特別整備を実施された実績は存在しない。ただし、特急「つばめ」がお召し列車の先導列車となった際に、その牽引機がお召し列車牽引機に準じた特別整備を施されたケース(C62 25・30)は存在している。


乗務員の間では、太いボイラーが運転台一杯に迫っていることに伴う狭さや、夏季の温度上昇など、運転台内部に余裕のあったC53形やC59形と比較すると、作業環境としては必ずしも良いとはいえない評価がなされている一方、本形式で採用された2軸従台車による高速安定性と振動の少なさ、自動給炭機による焚火労力の低減、D52形譲りの大形ボイラーと燃焼室がもたらした圧倒的な高出力による運転上の余裕など労働環境は好評価されている。


鷹取工場職員(当時)の今村潔によると、重心が高くなって安定が悪いのではと心配する意見もあったが、試運転をしてみると不安を一蹴する好成績だった、という[27]。


保存機[編集]

現存5両のうち3両が2016年4月に開館した京都鉄道博物館に所在する。うち、同館のC62 2は動態保存で車籍も有するが、法定検査を受けていないため、本線での運転は不可能である。


C62 1[編集]


C62 1

1948年(昭和23年)1月17日に日立製作所笠戸工場で落成[3]。同年1月23日付で広島第二機関区に新製配置された後、1950年(昭和25年)8月23日に宮原機関区に転属し、東海道本線で特急「つばめ」・「はと」などを牽引した[3]。1957年(昭和32年)7月10日に再び広島第二機関区に転属されると、特急「かもめ」や寝台特急「あさかぜ」・「さくら」などを中心に牽引し[3]下関電化後も岩徳線直通など山陽本線列車の一部に充当されたが[3]、1966年(昭和41年)9月30日に急行「音戸」を牽引して広島 - 下関間を往復したのが最後の運用となり、同年10月1日付で第一種休車となった[10][28]。1967年(昭和42年)4月1日に広島機関区へ移り、同年6月1日に第二種休車を経て、同年7月14日付で除籍となった(中国支達1460号)[3]。


除籍後は解体が予定されたが国鉄本社からその処分を保留する指示が出され[28]、保存を見越して広島機関区、次いで小郡機関区において長らく保管され続け、1976年(昭和51年)3月に広島鉄道学園(国鉄職員の研修施設)敷地内で静態保存されるとともに、同年3月31日付で準鉄道記念物に指定された[29]。しかし、国鉄改革の際に同学園が閉鎖され、しばらく同敷地内に放置されていたが、1994年(平成6年)に梅小路蒸気機関車館に移されており、標準では引掛け式となる標識灯を端梁に埋め込むなど、山陽本線で運用されていた本形式独特の改造を施された姿を今に伝えている。


2013年(平成25年)7月20日にはイベント「銀河鉄道999とC62形蒸気機関車」にて、漫画「銀河鉄道999」の999号と同形式であるC62 1のデフレクタに「999」のエンブレムとヘッドマークの取り付け、同年9月1日まで蒸気機関車館扇形車庫11番線に展示された。梅小路蒸気機関車館を拡張・改称した京都鉄道博物館で引き続き保存展示されている。


2023年(令和5年)12月9日から2024年(令和6年)2月4日までイベント銀河鉄道999展にて漫画版銀河鉄道999の装飾の再現がされた。上記の記述と同じくエンブレムとヘッドマークに999の文字が取り付けられた。


C62 2[編集]

1948年(昭和23年)5月20日に日立製作所笠戸工場で落成[3]。C62 3・4とともに自動給炭機の試用機として製造され、同年6月14日付で糸崎機関区に新製配置された[3]。1950年(昭和25年)8月12日に宮原機関区へ転属。翌1951年(昭和26年)に鷹取工場へ入場した際に、当時行われていた模範整備運動と宮原機関区からの要望で、除煙板にステンレス製の「つばめマーク」が取り付けられた[3]ことから、「スワローエンゼル」の愛称で親しまれる。また運転席キャブ及びデフレクタの誘導員用手すりにステンレス鋼が使用されている。宮原所属時代にはランボードにステンレス鋼の飾り帯が使用されているときもあったが、後の渡道に際して撤去された。


東海道本線の全線電化によって余剰となり、1956年(昭和31年)11月25日から1957年(昭和32年)1月8日まで保留車として吹田機関区へ留置された後[3]、同年1月21日に北海道へ渡る[3]。苗穂工場で軽軸重形への改造工事が施工されて1957年(昭和32年)2月7日付で小樽築港機関区へ転属[3]。函館 - 小樽間の急行列車牽引などに充当され[3]、重連運転では専ら前部補助機関車の運用に優先的に使用された。1970年(昭和45年)7月28日から8月6日にかけ苗穂工場で行われた全般検査に際し、当時はこれが本形式最後の全般検査になるとされていたこと、また過去の特急牽引時代を模す意味でも記念としてランボードの白線塗装が行われた。白線は当初工場出場後に消去する予定だったがそのまま小樽築港機関区へ回送、引渡しを行い[30]、梅小路蒸気機関車館収蔵後もランボードの白線は残されている[31]。


1972年(昭和47年)10月10日に、鉄道100年を記念して設立された梅小路蒸気機関車館に動態保存され、それ以降国鉄→西日本旅客鉄道(JR西日本)梅小路運転区に車籍を有している。蒸気機関車館の開館当初、1972年(昭和47年)10月14日・10月22日・11月5日・11月19日、1973年(昭和48年)3月11日・4月22日には京都 - 姫路間で臨時列車「SL白鷺号」を牽引している。しかし同機は、蒸気機関車館保存後の1974年(昭和49年)8月から9月にかけ国鉄長野工場で全般検査が実施された後、「SL白鷺号」などの本線自力走行や、本線走行に必要な検査は今日に至るまで一度も実施されていない。このため法令上、構内展示走行のみ可能な状態である。梅小路蒸気機関車館においては他の動態保存機とともに「SLスチーム号」としての保存運転に使用されていた。現役時代には、宮原時代と小樽築港時代の二度にわたり重油併燃装置が搭載されたが[3]、動態保存への移行にあたって撤去された。


なお、梅小路蒸気機関車館建設時の保存車両選定で、同一形式が複数残存した場合は、原則的には最若番機あるいは最終号機を最有力候補としていた。C62形はC62 1が存在したため当初は候補に挙げられていたが、C62 2の人気には逆らえず、変更となった模様である[29]。


1997年(平成9年)9月11日午前10時、京都駅の新駅ビル落成式典にあたって、駅構内においてグランドオープンを告げる汽笛を鳴り響かせた。式典後梅小路へはEF65形の牽引により回送されたが、その際1番線ホーム(現・0番線ホーム)で20分ほど機回しを行い、新駅ビルの中央改札口の正面で、蒸気と煙を上げるC62形が展示されるという演出がなされた。


本機は東日本旅客鉄道(JR東日本)への管外貸出が2回ある。1度目は鉄道の日制定および大宮工場開設100周年記念として、1994年(平成6年)10月9日に行われた大宮工場の公開イベント「新旧つばめの出会うとき」で、JR東日本が保有するEF55 1およびEF58 93、九州旅客鉄道(JR九州)から借り入れた787系電車とともに展示された。2度目は1999年(平成11年)8月1日から9月12日に行われたアニメの企画「ドリームトレイン1999」のイベントで、品川駅にて展示された。しかしながら、この回送途中に軸焼けしていることが判明したため、それ以降、長距離の移動を伴う貸し出しは行われなくなった。2010年(平成22年)ごろには過熱管の水漏れの発生により休車していたが、梅小路蒸気機関車館開館40周年記念事業の一環として修理され、その記念日の2012年(平成24年)10月10日に正式に構内運転復帰となった[32]。


2013年(平成25年)7月20日にはイベント「銀河鉄道999とC62形蒸気機関車」にて、漫画「銀河鉄道999」の999号と同形式であるC62 2に「999」のヘッドマークを取り付け、「SLスチーム号」として構内を走行した。


2016年(平成28年)4月29日以降は京都鉄道博物館で引き続き「SLスチーム号」の保存運転をおこなっているが、2017年(平成29年)10月より1年検査に入ったが、ボイラの水漏れや腐食した灰箱など老朽化が進行していたため、ボイラの大改修工事に着手、サッパボイラに入場し、大・小煙管の交換などの作業が行われ、2018年(平成30年)11月1日より構内運転に復帰している[33]。


2023年(令和5年)12月9日から2024年1月8日まで京都鉄道博物館でのイベント、銀河鉄道999展でSLスチーム号にて999号のヘッドマークを付けて走行した。12月16日・17日にて、劇場版銀河鉄道999の装飾を再現した撮影会が行われた。


2024年(令和6年)1月8日、営業運転後に給炭作業場にて、機関士による逆転ハンドルの操作ミスにより車止めの方向へ誤後進して突破、炭水車の最後輪が脱輪する事故を起こした[34]。


C62 3[編集]


C62 3牽引によるC62ニセコ号の走行音(スハフ44 7にて収録、上り9162列車)

Duration: 33 minutes and 6 seconds.33:06

(函館本線小樽 - 余市間、1990年9月1日)*31:35〜31:03などに警笛が鳴るため音量注意

この音声や映像がうまく視聴できない場合は、Help:音声・動画の再生をご覧ください。

廃車後、小樽築港機関区で保管の後に1977年から北海道鉄道記念館(現・小樽市総合博物館)で静態保存されていたが、国鉄分割民営化直前に小樽築港機関区で復元された。現在は北海道旅客鉄道苗穂工場内の北海道鉄道技術館で静態保存されている。詳細は下記ページを参照。


詳細は「国鉄C62形蒸気機関車3号機

C62ニセコ号(1994年)

C62 17[編集]

1954年12月15日に橋の強度を調べる試験で時速129kmを記録し、現在でも日本の蒸気機関車最高速度記録を保持している。名古屋市千種区・東山動植物園に1971年から保存されていたが、2011年3月、名古屋市港区に開館したリニア・鉄道館に移設された[35]。



C62 17(リニア・鉄道館 2013)

C62 26[編集]


C62 26

2014年4月に閉館となった大阪市港区・交通科学博物館に1966年から閉館まで静態保存されていた。その後、2016年に開館した京都鉄道博物館に移設された[36]。


2023年(令和5年)12月9日から2024年(令和6年)2月4日までイベント、銀河鉄道999展にてアニメ版銀河鉄道999の装飾がされていた。


その他[編集]


東京駅に保存されているC62 15の動輪

これらのほかに、東京駅丸の内側地下コンコース「動輪の広場」にはC62 15の動輪3組とメインロッド、それにサイドロッドが組み付けられた状態で保存展示されている。


以上のとおり、特徴的な形状で知られた汽車製造製グループの13両は1両も現存しない。この汽車製造製グループのラストナンバーにして、本形式のラストナンバーでもあるC62 49は、常磐線でのさよなら運転後、保存を考慮してしばらく平機関区に保管されていたが、結局保存先が決まらず、時期的に、いわゆるSLブームが社会現象となる直前の時期だったこともあり、そのまま1968年6月13日に関東支達42号により廃車・解体処分に付されてしまった。この49号を含め、汽車製造製グループは新造時より軽軸重仕様で竣工したものが多く、東海道・山陽本線系統ではなく東北・常磐線系統に配置され、比較的地味な運用に就いていたため、モニュメント性に欠けていた。


特徴ある車輌[編集]


C62 2のつばめマーク(1994年の大宮工場のイベントにて撮影)

C62 1

製造当初はテンダーの形状がC59形と同じだった(量産に合わせて、後に現在の形状に変更)。

C62 2

除煙板(デフレクター)に『つばめマーク』付き。『スワローエンゼル』という愛称で呼ばれていた。ただし、宮原機関区時代の同機は調子がよいとはいえず、実際は「つばめ」を牽く機会は比較的少なかった[37]。キャブの裾が他機と比べて約10cmほど短い。これは当初満鉄型ストーカーをテンダー側に装備していた影響によるものである。

現在も走行可能な状態で保存されている実車としても著名である。

C62 5

広島第二機関区所属時代、前照灯が銀色・砲弾型のシールドビーム1灯に交換されていた。1965年の糸崎機関区転出後、従来型の前照灯に戻された。

C62 7

ボイラ側面にある砂撒き管が片側1本ずつ外部に露出している変形機。

C62 8・9・10・37

1957年(昭和32年)に大宮工場(現・大宮総合車両センター)で列車番号表示板が試験的に取り付けられた。本採用にはならなかったが表示板受けは後年まで残った。また、C62 9は仙台機関区所属時代に前照灯をシールドビーム2灯としており、同時期に東北本線で活躍していたD62形にも通じる特異な外見となっていた。

C62 12

除煙板に『つばめマーク』が付けられたという伝説がある車両。ただし、映像などは見つかっておらず文字どおり幻のマーク。外部リンクを参照のこと。

C62 17

1954年12月に東海道本線木曽川橋梁にて129km/hの狭軌蒸気機関車最高速度を達成。

C62 18

C62 2と同じく、除煙板に『つばめマーク』を付けていた。C62 18のツバメはC62 2のツバメに比べて頭部を下げた位置で取り付けられており、『下がりツバメ』と称してC62 2と区別された。梅小路蒸気機関区に転出の際にこのマークは外され、以後は一般的なスタイルに戻った。

C62 23

平機関区に所属していたころに回転式火の粉止めの装備が検討され、煙突が短縮された。また本機は1965年から1967年にかけて平機関区に所属していたC62形12両の中では一番調子が良く、特急「ゆうづる」牽引に最も多く充てられた。1967年9月30日に運転された本形式による最後の定期特急列車、上り「ゆうづる」(6レ)の牽引も担当した。

C62 25

お召し列車先導列車用特別整備車(1956年11月2日下り「つばめ」牽引運転・お召し本務機C59 108号)。東海道本線のお召し列車としては最後の蒸気機関車牽引となった。

C62 26

名古屋機関区当時に浜松工場で運転台通風装置を試験的に取り付け。ボイラが運転台直近に迫るため室内が暑いことから環境改善を狙って機関士席足下に通気口を取り付けた。しかし外気とともにシンダも一緒に吸い込むことからあまり役に立たなかった。

C62 27

1967年頃、第1先輪がスポーク車輪に振り替えられていた(C59形のものかどうかは不明)。北海道に渡ったC62形の中では一番早く廃車された。

C62 29

特別整備機関車(ステンレス装飾など)・『宮原のエース』の愛称で知られ、宮原機関区所属時はC62 35とともに「最も調子の良いC62」と評価されていた。

C62 30

お召し列車先導列車用特別整備車(1953年2月28日上り「はと」牽引運転・お召し本務機C59 185号)。

C62 35

先輪にC59形のものと思われる水かき付きスポーク車輪を装備していた。C62 48と違い第1・第2先輪の両方がスポーク車輪となっていた。宮原機関区所属時はC62 29とともに同区所属機で「最も調子の良いC62」と評価されている。

C62 38

増炭覆いをテンダー側板と一体化した変形機。

C62 40

C59形で実験的取り付けられた消煙装置が取り付けられた。

C62 42

1953年2月に試作集煙装置取り付け、1956年11月北海道の小樽築港機関区へ転出の際に撤去。

C62 48

第2先輪にC59形の廃車発生品と思われる水かき付きスポーク車輪を装備していた。同機もC62 23と同様、特急「ゆうづる」牽引の機会が多かった。また、平機関区の本形式の中でもC62 23と並んで最好調機と言われた。

松本零士作『銀河鉄道999』に登場する「999号」の牽引車のプレートナンバーの当該が同機であるが、残念ながら実車は用途廃止後に解体されている。ただし、プレートナンバーは現存し、松本が所有していた[要出典]。

C62形蒸気機関車が登場する作品[編集]

映画[編集]

1954年制作の記録映画「つばめを動かす人たち」には、C62 18が牽引する下り「つばめ」の走行風景やヘッドマークを掲げて宮原機関区に佇むC62 2の姿が収められている。

1960年制作の東映映画『大いなる驀進』。特急「さくら」を舞台に、国鉄の全面協力で撮影された作品で、非電化区間のあった山陽本線の場面に登場。実際に山陽本線で運用されていたC62 1・35のほか、尾久機関区所属のC62 19や平機関区所属のC62 47も映っている[38]。

1963年制作の土本典昭監督の映画「ある機関助士」。実際に運行している常磐線のC62の機関室で機関士と機関助士の働く光景を映した記録映画。数々の賞を受賞した。作中にはC62 22・38が登場。

1970年制作の松竹映画「男はつらいよ 望郷篇」にて小樽築港機関区が登場するシーンがあり、転車台に乗ったC62 2が映っている。なお、他に同機関区所属のD51 27も登場する。

1971年製作のドキュメンタリー映画「雪の行路 急行『ニセコ』C62重連」。鉄道ジャーナル社製作作品。撮影は杉山昭親。監督・脚本は竹島紀元。ナレーターは細井重之。1970年の晩秋から1971年の厳冬期にかけて撮影した、C62重連の急行「ニセコ」の小樽 - 長万部間の道のりでの激闘の短編ドキュメンタリー映画。現在、鉄道ジャーナル社からDVDが発売されている。

テレビ番組[編集]

NHKテレビの特集番組「土曜スペシャル 『蒸気機関車C-62』」[注 28]

1971年8月7日放送。C62 2(前部補機)とC62 3(本務機)のゴールデンコンビの重連による上り急行「ニセコ1号」(104レ)牽引の模様を、小樽築港機関区出区から終着・函館駅到着(長万部 - 函館間はC62 3の単機牽引)まで追跡撮影したドキュメンタリー番組。ナレーターは小沢昭一。後に「NHKアーカイブス」枠で、デジタル補正版が放送されたほか、2015年1月現在、NHKオンデマンドで視聴可能[39]。

現役の実車ではない形で登場する作品[編集]

松本零士作の漫画「銀河鉄道999」に、主役の銀河鉄道超特急999号の牽引機としてC62形が登場する。原作の漫画および映画版では実車が存在したC62 48であった(松本零士が同機のプレートを保有していた)。テレビアニメ版では実物への敬意を表しつつ、史実のラストナンバーであるC62 49からの続番として、架空のC62 50になっている。アニメーションを制作するに当たって関係者が梅小路に保存されているC62 2を取材し、動輪の動き方や蒸気の噴出の様子などを調査していったと言う。

「黄金勇者ゴルドラン」にはC62形から変形するアドベンジャーと呼ばれる勇者ロボットが登場する。ただし、ナンバープレートの表記はC-62である。

アニメ「勇者王ガオガイガー」の第3話「聖なる左腕」に、敵役のロボットに変形する機械素体としてC62 2が登場。3重連状態で登場しているが、3両ともC62-2というナンバープレートが付いている。

徳田ザウルス作の漫画、「ダッシュ!四駆郎」3巻に登場する。機関区跡地に放置されているが、元機関士の老人(町の子供たちからは「ゴキブリじじい」と呼ばれている)によって手入れされている。子供たちを乗せて走行するシーンもある。また12巻では、ゴキブリじじいに払い下げられ、スクラップ屋に保存されている。プレートの表記は「C62 04」である。

手塚治虫作の手塚プロダクションライオンブックスシリーズ第4弾オリジナルアニメ「山太郎かえる」に、ヒグマである主人公「山太郎」の親友として「しい六」と呼ばれたC62形が登場する。山太郎を自由にするために、共に「王者」という身分から親身になって山太郎の相談に乗り、町で行われる祭りの日に山太郎を乗せて山へ送り届ける。時が流れ、解体寸前のところで成長した山太郎をおびき寄せるために整備され、自身がもう一度走れる喜びと、山太郎を殺すための道具にされる悲しみ、2つの感情に悩まされることになる。

映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の冒頭では、堀北真希演じる少女・星野六子がC62 22牽引の旅客列車(集団就職列車)に乗り、青森からの集団就職で上京する場面に登場。鉄道模型(アスターホビー製のライブスチーム)を撮影した物をCG処理によって画像に取り込んでいる。なお、上野駅に到着したシーンでは、梅小路蒸気機関車館に動態保存されているC62 2をC62 22に擬装した上で同館に上野駅ホームを再現し撮影したものを映像素材として使用している。旧型客車と静態保存されているC62 1も使用された。

Emuの18歳以上向けPCゲーム『Railway 〜ここにある夢〜』で、主人公の祖父の遺産として登場する。ナンバープレートが外されているため、車体番号は不明(作中の会話からC62 32の可能性が高い)。当初は不稼働状態で廃駅を改装した喫茶店「RailWay」の納屋に収められていたが、劇中終盤で主人公の祖母および国鉄職員だった祖父の友人の手によって稼動状態に復活し、主人公の手で運転される。

PlayStation 2用ソフト『A列車で行こう6』の隠し車両として登場、総プレイ時間62時間を越えると客車を繋いだ状態で出現する。

チュンソフトより発売されたPlayStation 2用ソフト『3年B組金八先生 伝説の教壇に立て!』で、生徒の一人、黒部哲郎のストーリーで登場する。

花輪和一の漫画「コロポックル」で、主人公の童女がコロポックルに依頼され「C62ニセコ号」に搭乗、小樽 - 倶知安間を往復するシーンを通じて、線形、機関車の構造などが詳細に描かれている。

本機に由来する名称を持つ事物[編集]

ゲームソフトメーカー、ハドソンの社名は、本形式の軸配置(ハドソン)に由来し、1988年(昭和63年)の「C62ニセコ号」運転開始にあたって同社は大口のスポンサーとして名を連ねていた。また、同社が開発したNECホームエレクトロニクス社製家庭用ゲーム機(PCエンジン・PC-FX)向けチップセットには、「HuC62xx」(xxは2桁の数字)という型番が与えられていた。

ニンテンドーDS用ソフト『ゼルダの伝説 大地の汽笛』の登場人物、機関士シロクニの名前の由来となっている。

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

^ ただし、従台車の支点位置は工場出荷時に決定された位置から変更不可のため、途中での改造時には従台車の新製品あるいは仕様が一致する廃車発生品への交換が必要だった。

^ 動軸の軸重を3軸合計で48.23 t から44.59 t へ引き下げ。車両重量そのものはほとんど変化していないため、その分先台車と従台車の負担が増大することになる。

^ C62 1の初期の記録写真では、その後の改良型リンク式とは引棒の取り付き方が異なっている。

^ D52形2両の状態不良のボイラーを組み合わせて1両分の良品を捻出した。乙缶と丙缶の2種類を利用。なお、乙缶、丙缶のいずれも戦時設計の低規格ボイラーである。後に戦時製造の甲缶を含めてほとんどのボイラーが鷹取工場などの国鉄工場で新製された甲缶に取り替えられた。

^ いずれも1948年(昭和23年)11月上旬までに使用開始された実績のある機体である[3]。

^ 浜松工場では工場出場後に慣らし運転なしに即座に急客牽引に充てていたが、主連棒のビッグエンドのメタルを1/1000のテーパーに仕上げていたために可能となったもので、鷹取工場はそれを知って真似を諦めた。

^ 9月30日に下関駅を出る上り列車牽引に充当させ、広島駅到着後そのまま転属した。

^ 1968年(昭和43年)10月1日ダイヤ改正後は寝台車・食堂車のみの10両編成 (365 t) が基本となっていた。

^ さらに「安芸」は1968年12月から糸崎以西で機関車にヘッドマークを取り付けたが、広島到着後のマーク付け替え作業を省略するために1969年3月以降は下り「安芸」を牽引した機関車がマークを外さず上り「安芸」を牽引して折り返すよう運用変更を実施している。

^ 呉線の蒸気機関車さよなら列車となった「安芸」の最終列車はC59形牽引となり、本形式は普通列車と荷物列車のみの最終運用となった。

^ 試験的に東北本線の白河以北へ入線したことがあったが、勾配の連続する郡山 - 福島間を中心に空転が頻発したこともあり、本格的に運用されることはなかった。

^ 「はつかり」運用で炭水車への給水は水戸と平で停車中に行われたが、石炭の補給は行わないため。

^ 仙台機関区でも転車台が老朽化した一因に本形式の存在が挙げられたほどであった。

^ 蒸気・ディーゼル時代の「はつかり」も同じ理由から常磐線経由とされていた。

^ 上野寄りからカニ21形 - ナハネ20形 - ナロ20形 - ナハネフ23形 - ナロネ21形 - ナロネ21形 - ナロネ21形 - ナシ20形 - ナハネ21形 - ナロネ21形 - ナハネ20形 - ナハネ20形 - ナハネ20形 - ナハネ20形 - ナハネフ23形の15両。換算39.5両で、平 - 仙台間はC62 22が牽引した。

^ 当時は山陽本線の寝台特急牽引で本形式の限界性能発揮を必要とする運用が継続しており、好調機は可能な限りそちらの運用へ優先的に充当する必要があった。

^ 後の共通追加工事として、1967年(昭和42年)には小樽 - 滝川間交流電化対策として副燈(シールドビーム)設置。1968年(昭和43年)からは主燈とナンバープレートの間に電池式の非常燈が設置され、一時は三つ目スタイルとなっていたが、こちらは短期間で撤去されている。

^ ただし、『ドキュメント・感動の所在地―忘れえぬ鉄道情景 (3) (Neko mook (386) ) 』(2002年、ネコ・パブリッシング)pp.268 - 269によると、1970年3月の記録として、急行「ニセコ」(104レ)でC62 2が本務機、C62 3が前補機で運用され、C62 2は函館駅まで直行。翌日の急行「ニセコ」(103レ)で長万部駅の1つ函館側の中ノ沢駅を単機で通過。翌日の急行「ニセコ」(104レ)は前後を入れ替え(同記事には、「補機は前日の下り本務機が担当するように運用を入れ替える」と記載)、C62 2+3の重連で運用されたという記載がある。

^ 1964年(昭和39年)6月1日に軍川駅から大沼駅に改称。同時に従来の大沼駅が大沼公園駅に改称。

^ 2016年(平成28年)3月26日に渡島大野駅から新函館北斗駅に改称。

^ 1987年(昭和62年)4月1日に信号場から旅客駅に変更。

^ 藤城線開通後、仁山駅を通る従来線を経由する下り列車は、一部の普通列車のみとなっていたが、2016年(平成28年)3月26日の北海道新幹線開業後は一部を除いて従来線を経由する経路に戻された。

^ 急行「石北」の前身は同じ区間で運転されていた夜行準急「はまなす」。1968年(昭和43年)10月1日ダイヤ改正(ヨンサントオ)以降の札幌 - 網走間の夜行急行「大雪6・6号」→ 1978年(昭和53年)10月1日ダイヤ改正以降の夜行急行「大雪5・6号」→ 1980年代中期以降に夜行1往復のみとなった急行「大雪」→ 2006年(平成18年)3月18日ダイヤ改正で臨時列車となった夜行特急「オホーツク9・10号」の母体となった列車である。

^ 1970年(昭和45年)当時、全般検査ではC62形の場合約1,000万円の経費(人件費約700万円、資材費約220万円)が必要なのに対し、余剰車の転用・改造では100万円程度[1]。ちょうどこの頃、会計検査院より「蒸気機関車を一方で廃車しながら一方では経費を掛けて修繕を行なっている」と経費上問題ありと指摘され、広域の転属・配置換えが行なわれた理由となっている。

^ DD51形への置き換えによって、高速運転する海線で、わずか140kmあまりの区間ながらも、約30分ほど所要時分の短縮が実現した。これは、動輪周出力で同等ながらも機関車自体の重量が約50t軽くなったこと、粘着引張力が1.3倍になり低速での加速力を増したことなどによる。

^ ただし、1973年10月から1974年4月まで日豊本線の宮崎 - 都城間で下り「日南3号」にてC57形による蒸気機関車牽引の急行列車が復活している。

^ 本来は現存最若番車を保存する方針だったが、「つばめマーク」による人気から、C62形ではC62 1が現存していたにもかかわらず、C62 2が選定された。

^ 蒸気機関車の形式名にはハイフンはないが、番組の題名には "C-62" とハイフンが入る誤記がある。

出典[編集]

^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp 『追憶のSLC62』 pp.100 - 104

^ a b おのつよし 『日本の鉄道100ものがたり』文藝春秋文春文庫 1991年5月10日、pp.174 - 178

^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar 『追憶のSLC62』 pp.108 - 117

^ つばめを動かすひとたち 日映科学映画製作所1954年製作 NPO法人科学映像館

^ 西尾恵介「機関車C62」交友社『鉄道ファン』1994年8月号 No.400 p.22

^ 西尾恵介「機関車C62」交友社『鉄道ファン』1994年8月号 No.400 pp.30 - 33

^ 奈良崎博保「C62 下関区を去る」交友社『鉄道ファン』1964年12月号 No.42 p.51

^ 鉄道ファン編集部「山陽本線電化による蒸機のゆくえ」交友社『鉄道ファン』1964年12月号 No.42 pp.48 - 51

^ 西尾恵介「機関車C62」交友社『鉄道ファン』1994年8月号 No.400 pp.36 - 44

^ a b 直方清博「301列車のSL牽引終わる」交友社『鉄道ファン』1967年1月号 No.67 p.77

^ 新屋正「岩徳線のC62消える」交友社『鉄道ファン』1968年1月号 No.79 p.59

^ 滝田光雄「C62の現状と将来」 鉄道記録映画社『鉄道ジャーナル』1969年4月号 No.20 pp.26 - 27

^ 藤井浩三「その後の糸崎区のSL」交友社『鉄道ファン』1968年1月号 No.79 p.59

^ 庄田秀「C59の限定運用設定」、交友社「鉄道ファン」1969年4月号、No.94、p79

^ 竹内均「糸崎区のSL運用再び改正される」、交友社「鉄道ファン」1969年6月号、No.96、p88

^ トピックフォト「電化まぢかの呉線を行く」 鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1970年9月号 No.241 p.83掲載写真および解説

^ 松本謙一「かくて呉線の火は消えぬ」『鉄道ファン』1970年12月号 No.115 pp.16 - 20

^ 窪田正実「呉線電化開業前後」 鉄道図書刊行会『鉄道ピクトリアル』1970年12月号 No.245 pp.33 - 35

^ 交友社『鉄道ファン』1994年8月号 No.400 p.56

^ 西尾恵介「機関車C62」交友社『鉄道ファン』1994年8月号 No.400 p.34

^ 池田光雅「常磐線の歩みと戦後の機関車運用」『蒸気機関車』No.31、pp.35 - 36 キネマ旬報社、1974年5月。

^ 大山正「仙台のC62覚書き」『国鉄時代』Vol.19、pp.51 - 57 ネコ・パブリッシング、2009年11月。

^ 『函館本線C62』、イカロス出版、2018年9月、172-181頁。

^ 『函館本線C62』、イカロス出版、2018年9月、191 -228頁。

^ a b 『函館本線C62』、イカロス出版、2018年9月、64頁。

^ 『函館本線C62』、イカロス出版、2018年9月、73頁。

^ 「C60・C61・C62形の計画・誕生・配置」『鉄道ピクトリアル』No.150 1963年10月号 p.15

^ a b 庄田秀「消えゆくハドソン形のパイオニアC621への追憶」交友社『鉄道ファン』1967年12月号 No.78 p.17

^ a b 庄田、1976年

^ 松本謙一・相田信二「スワローエンゼルバラバラ事件 C622 最後の全般検査」交友社『鉄道ファン』1971年1月号 No.116 p.46-61

^ 『函館本線C62』、イカロス出版、2018年9月、160 - 169頁。

^ “梅小路蒸気機関車館 C62形2号機の修繕”. 梅小路蒸気機関車館. 2015年8月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年7月23日閲覧。 

^ お帰りC62-2 復帰セレモニー - 京都鉄道博物館 2018年11月1日

^ 京都鉄道博物館のSLが逆走、車止めを突き破って脱線…けが人なし 読売新聞 2024年1月8日

^ JR東海プレスリリース「JR東海博物館(仮称)における展示概要について 資料2」

^ “プロムナード”. 展示車両紹介. 京都鉄道博物館. 2015年6月7日閲覧。

^ 佐竹保雄「私が見た北のC62」『国鉄時代』Vol.20、ネコ・パブリッシング、2009年。

^ 『大いなる驀進』 - 寝台特急「さくら」を牽引した、謎の「C62 129」 - 杉山淳一「読む鉄道、観る鉄道 (31) 」マイナビニュース 2013年4月28日

^ 土曜スペシャル 蒸気機関車C-62 - NHK放送史

参考文献[編集]

深田高一(写真・文)『追憶のSLC62 勇者シロクニに捧げる讃歌』JTBパブリッシング〈JTBキャンブックス〉、1996年5月、100 - 117頁。ISBN 4-533-02475-0。

竹島紀元(鉄道ジャーナル編集長)「栄光の機関車C62の軌跡」 pp.100 - 104

久保田博(交通研究家)「C62のメカニズム」 pp.105 - 107

松本謙一(月刊「とれいん」論説委員)「C62全49両の経歴」 pp.108 - 117

「-最後のC62特急- ゆうづる物語」『SL No.9 1974』、交友社、1974年、pp.1 - 24

庄田秀「C62トップナンバー 9年ぶりに安住の地へ」 交友社『鉄道ファン』1976年8月号 No.184 pp.80 - 83

西尾恵介「機関車C62」交友社『鉄道ファン』1994年8月号 No.400 pp.14 - 48

西村勇夫「回想 C62形二羽のつばめ」 交友社『鉄道ファン』2002年10月号 No.498 pp.104 - 111

「幻のつばめ」C62 18号機の記録写真と東海道C62形の特急運転

西村勇夫「C62 42とある特急機関士」その1 交友社『鉄道ファン』2003年11月号 No.511 pp.124 - 130

C62 42号機の車歴と試作集煙装置始末、2(2003年12月号)と3(2004年1月号)は萱原登「-つばめ・はと- C62特急に乗務した6年間」前・後編

鉄道ジャーナル編集部「C62 3 なつかしの古巣 小樽築港機関区へ帰る」 鉄道ジャーナル社『鉄道ジャーナル』1986年12月号 No.240 pp.36 - 37

外部リンク[編集]

Steam Locomotive C62 Museum


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国鉄8900形蒸気機関車

 



経歴

台湾総督府鉄道部200形

脚注

参考文献

国鉄8900形蒸気機関車



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(引用編集)


8900形

8900形は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院が輸入した、幹線旅客列車牽引用のテンダー式蒸気機関車である。1912年(明治45年)6月に運行が開始された日本初の「特別急行列車」の牽引を務めることにもなった機関車である。


概要[編集]

1911年(明治44年)にアメリカのアメリカン・ロコモティブ(アルコ)社(American Locomotive Company = Alco)で製造された過熱式機関車である。機関車本体のみ2次にわたって36両が製造された(炭水車は国内製造)。1次発注分の24両(製造番号49805 - 49828)はブルックス工場(Brooks Works)、2次発注分12両(製造番号50535 - 50546)はリッチモンド工場(Richmond Works)製である。形式は、当初8600形が予定[1]され、1次発注分の24両は8600 - 8623の番号を付けて来着したが[2]、車軸配置の変更にともない8900形(8900 - 8923)に改められた。2次発注分は当初から8924 - 8935で落成している。


プロイセン王国(現在のドイツ)のベルリーナ製8800形、ボルジッヒ社製8850形、イギリスのノース・ブリティッシュ・ロコモティブ社製8700形と同様の経過で発注が行われたものであるが、車軸配置4-6-0(2C)の他形式に対し、従輪を採用し、日本初の4-6-2(2C1)形軸配置のテンダー機関車となった。


これは、火室を従輪上に置くため、4-6-0形に比べて火格子面積を広げることが可能で、幹線用機関車として余裕があるのに越したことはなく、近い将来の輸送量増加も期待できることから、アルコ社の提案を受け入れたものである。とはいえ、計36両もの大量発注となったのは、アルコ社の日本における代理店であった三井物産の強力な政治的運動の結果であったようである[3]。


本形式自身は短命に終わったものの、その約1000PSという出力、ボイラーのサイズは、18900形(C51形)・C54形・C55形・C57形にまで受け継がれており、また足回りについては本機の動輪を拡大しただけのC51形が、基本設計を前掲のライトパシフィック4形式に加えて、C59形から戦後のC62形まで受け継がれた点を勘案すると、その採用を島安次郎が批判したものの、国鉄蒸気機関車の中では、D50形に並んで実り多い系図の頂点に立つ機関車であるといえる。


構造[編集]

前節でのべたとおり、車軸配置4-6-0(2C)形の仕様書に対し、本形式は4-6-2形に変更されている。これは、通常4-6-0形では火室を台枠間におくため、火格子面積を大きく取ろうとするとどうしても前後に長くなり、十分にこれを取ることが困難になる。しかし、火室を従輪上に置くことにすれば、火格子を台枠上に置いて幅を広く取ることができ、火格子面積を33.3%増大することができるのである。


台枠は、鋳造による棒台枠で、主台枠と従台枠は別々に製作して組立てられたものである。従台車は、アルコ社が特許を持つ外側台枠式のコール(Cole)式で、好成績を収めたこともあり、C51形でもそのまま制式採用された。


炭水車は、国産の2軸ボギー台車を2個備えたものである。


主要諸元[編集]


形式図

全長:19,507mm

全高:3,810mm

軌間:1,067mm

車軸配置:4-6-2(2C1) - パシフィック

動輪直径:1,600mm(5ft3in)

弁装置:ワルシャート式

シリンダー(直径×行程):470mm×610mm

ボイラー圧力:12.7kg/cm2

火格子面積:2.53m2

全伝熱面積:160.6m2

過熱伝熱面積:29.7m2

全蒸発伝熱面積:130.9m2

煙管蒸発伝熱面積:122.1m2

火室蒸発伝熱面積:8.8m2

ボイラー水容量:5.7m3

大煙管(直径×長サ×数):140mm×4,953mm×16本

小煙管(直径×長サ×数):57mm×4,572mm×99本

機関車運転整備重量:62.40t

機関車空車重量:56.96t

機関車動輪上重量(運転整備時):38.99t

機関車動輪軸重(第2動輪上):13.26t

炭水車運転整備重量:41.02t

炭水車空車重量:20.84t

水タンク容量:16.03m3

燃料積載量:4.06t

機関車性能

シリンダ引張力(真空):9310kgf (91kN)?

シリンダ引張力(空制):8800kgf

粘着引張力(真空):9770kgf

粘着引張力(空制):9897.5kgf

動輪周馬力:1000PS

経歴[編集]

本形式は、8900 - 8911, 8929 - 8935の19両は中部、8912 - 8928の17両は、西部鉄道管理局に配属された。中部鉄道管理局に配属されたもののうち、8908 - 8911, 8929 - 8934は新橋、沼津、浜松、8900 - 8907, 8935は名古屋の配置であった。1913年の機構改革により、名古屋庫は神戸鉄道管理局の所属となったが、同年9・10月に東京鉄道管理局の10両が神戸鉄道管理局へ転用され、全車が名古屋以西の配置となった。1915年(大正3年)11月には、8925が大正天皇の御大礼の際のお召し列車牽引に使用されている。


名古屋配置の10両は、1916年(大正5年)8月に西部鉄道管理局に転用され、配置は馬場以西となった。さらに1919年(大正8年)5月の機構改革により、西部鉄道管理局が糸崎 - 三原間を境に神戸、門司の両鉄道管理局に分割され、8919 - 8935は神戸、8900 - 8918は門司鉄道管理局の所属となった。その後、18900形の増備に伴い、8919 - 8921も門司局に移り、これは廃車までそのままであった。1921年(大正10年)には、8900 - 8910が三田尻(防府)、8911 - 8921が広島に配置され、特別急行列車に使用されているのが実見されている。


さらに、門司鉄道管理局管内のものは、18900形に押し出される形で九州地区への転用が進められ、8920と8921が1921年3月に鳥栖に転じ、翌年8月には8909, 8910, 8914 - 8919の8両も鳥栖に移った。その後は、局管内の移動が激しく行なわれたが、1926年(昭和元年)12月末時点で、8900 - 8902, 8911, 8912の5両が鳥栖、8903 - 8910, 8913 - 8915の11両が大里(門司)、8916 - 8921の6両が三田尻の配置であった。その後、8901 - 8904, 8906, 8910 - 8913, 8916 - 8920の14両は行橋に転じ、残りの8両は津和野、正明市(長門市)、厚狭、柳井、若松に1 - 2両ずつ配置されていたが、1932年頃から休車となるものが多くなり、1934年(昭和9年)10月に22両全車が廃車された。


一方、神戸鉄道管理局の14両は、当初、馬場、神戸、岡山に配置されていたものと推定されている。1923年(大正12年)3月末には、8927 - 8935が岡山、8922 - 8926が糸崎に配置されていた。その後、これらは関西本線に転用され、亀山に10両、湊町に4両の配置となった。しかし、1930年代に入ると休車となるものが多くなり、湊町の8923, 8925、糸崎の8924、鷹取工場で教習用となった8927を除いて、10両が姫路に留置されていたという。


その後、1932年(昭和7年)2月、関西本線王寺 - 河内堅上間の亀ノ瀬トンネルが崩落して、関西本線が分断された際に8932が一時的に復活して、西側の区間で使用されており、これが8900形最後の使用であったと推定される。1934年(昭和9年)8月に14両すべてが廃車となり、8900形は1両の払下げも保存もなく姿を消した。


台湾総督府鉄道部200形[編集]

1913年(大正2年)、台湾総督府鉄道にも、本形式の同系車4両(ロジャーズ工場製・製造番号51494 - 51596, 53977)が入っている。こちらは、200形(200 - 203)とされたが、ボイラーが若干小さく、炭水車もアルコ製で3軸式であった。1937年(昭和12年)には、形式がC92形に改められたが、番号の変更は行われなかった。導入後台北庫に配置され急行列車を中心に運用され、1940年頃南部の嘉義庫に配転となった。これらは太平洋戦争後まで残って、台湾鉄路管理局に引き継がれ、CT240形(CT241 - 244)となった。1968年(民国57年)全車廃車解体となり、こちらも8900形と同様に保存機はない。


脚注[編集]

^ 当時同番号を付された8550形があったが、これをどう処理するつもりであったのかは不明である。

^ 『鉄道ファン』2001年12月号、110頁にブルックス工場で撮られた写真が掲載されている。

^ ただし当時の工作課課長である斯波権太郎は、ドイツ流の狭火室・無従輪をよしとする島安次郎と異なり、低品質な常磐炭を燃料として十分な性能を得る必要から、従輪により支持された広火室や燃焼室などの最新機構を他に先駆けて導入し、そのメリットを享受していた日本鉄道の出身であった。そのため、彼はたとえそれが三井物産の政治運動であろうと、仕様変更の申し出を歓迎していた可能性がある。

参考文献[編集]

臼井茂信「日本蒸気機関車形式図集成」1969年、誠文堂新光社刊

臼井茂信「機関車の系譜図 4」1972年、交友社刊

川上幸義「私の蒸気機関車史 下」1978年、交友社刊

高田隆雄監修「万有ガイドシリーズ12 蒸気機関車 日本編」1981年、小学館刊

寺島京一「台湾鉄道の蒸気機関車について」レイルNo.23(1988年)プレス・アイゼンバーン刊

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表話編歴

 日本国有鉄道(鉄道院・鉄道省)の制式蒸気機関車

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表話編歴

台湾総督府鉄道/ 台湾鉄路管理局の蒸気機関車

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国鉄C51形蒸気機関車

   


国鉄C51形蒸気機関車



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

C51形蒸気機関車

C51 5(2006年5月14日、青梅鉄道公園 ※現在は埼玉県の鉄道博物館にて展示)

C51 5(2006年5月14日、青梅鉄道公園 ※現在は埼玉県の鉄道博物館にて展示)

基本情報

運用者 鉄道省→日本国有鉄道

製造所 鉄道院浜松工場、汽車製造

三菱重工業

製造年 1919年 - 1928年

製造数 289両

引退 1966年

愛称 シゴイチ

主要諸元

軸配置 2C1

軌間 1,067 mm

全長 19,994mm

全高 3,800mm

機関車重量 67.75t

炭水車重量 43.87t

総重量 111.62

動輪径 1,750mm

軸重 14.61t

シリンダ数 単式2気筒

シリンダ

(直径×行程) 530mm×660mm

弁装置 ワルシャート式

ボイラー圧力 13.0 kg/cm2 (1.275 MPa; 184.9 psi)

大煙管

(直径×長さ×数) 140mm×5500mm×18

小煙管

(直径×長さ×数) 57mm×5500mm×18

火格子面積 2.53 m2

全伝熱面積 167.8 m2

過熱伝熱面積 41.4 m2

全蒸発伝熱面積 126.4 m2

煙管蒸発伝熱面積 115.0 m2

燃料 石炭

制動装置 空気ブレーキ

最高運転速度 95km/h

定格出力 1040 PS

シリンダ引張力 11,700kg

粘着引張力 10,860kg

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C51形蒸気機関車(C51がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院(1920年、鉄道省に改組)が1919年(大正8年)に開発した、幹線旅客列車用の大型(のちには中型)テンダー式蒸気機関車である。


当初18900形と称したが、1928年6月にC51形と改称された。愛称はシゴイチ。


誕生の経緯と性能・構造[編集]

島安次郎の指導のもと、9600形の設計を担当した朝倉希一が設計主任となって開発が行われた。


諸外国で高速機関車に好んで用いられる「パシフィック形軸配置」(2C1=先輪2軸、動輪3軸、従輪1軸)を国産設計の蒸気機関車としては初めて採用し、設計にあたってはアメリカ合衆国から輸入したアルコ社製8900形の装着したコール式1軸心向外側軸箱式従台車が参考にされ、このことから8900形に続くものとして18900形という形式名が与えられた。


本形式においては常用最高速度を100km/hとして計画され、設計当時のドイツの機械学会の推奨する動輪の常用最大回転数[注 1]から逆算で1,750mmという設計当時の狭軌用蒸気機関車では世界最大の動輪直径が導出された。この動輪サイズは以後国鉄の旅客用大型蒸気機関車の標準サイズとなり、太平洋戦争後のC62形に至るまで踏襲された。


このような大直径動輪を採用するとボイラーの中心高が引き上げられるが、8900形と同時期にドイツから輸入されたボルジッヒ社製8850形でボルジッヒ社の推奨に従いボイラー中心高を2,438mmとして問題なかったことと、これを参考として8850形を上回るボイラー中心高として設計された9600形が好成績を挙げていたことなどから、8850形をやや下回る2,400mmに抑えつつも高いボイラー中心高を許容している[注 2]。


ボイラーは通常の3缶胴構成で、缶胴部の内径と火床面積を8900形と同一としているが、伝熱面積の増大を図って煙管長が5,500mmと8900形に比して500mm延伸され、この値は以後の国鉄制式蒸気機関車の標準値となっている。


台枠は設計当時としては一般的な25mm厚の板材による板台枠である[注 3]。


動輪は前述のとおり1,750mm径のスポーク式で、28962号機までは17本のスポークを備えていたが、折損事故対策として28963号機(のちのC51 164)以降は18本に増強されている。


弁装置はワルシャート式で、ピストン棒を長くしてメインロッドを短縮する設計[注 4]の8900形とは異なり、ベルリーナ社製8800形に倣ってピストン棒を短縮しメインロッドをやや長くし[注 5]、第2動輪を主動輪としている。


テンダーは当初、上縁を直線で通した17m3形だったが、18940号機(のちのC51 41)以降は、石炭8t、水17tを積載可能な8-17形が標準形テンダーとなっている。なお、後期分ではC53形と同じく石炭搭載量を12tに拡大した12-17形テンダーのものも見られる。また、1930年の超特急「燕」運行開始時に専用牽引機に指定されたC51 171、208、247 - 249は東京 - 名古屋間ノンストップ運転実現のためにテンダーを水槽容量の大きいC52形の20m3後期形と振り替え、かつ水30tを積載可能な水槽車(「燕」運用時代はC51 247 - 249の番号が与えられていた。後のミキ20形)を増結する関係上、水槽車との間には給水管、テンダー上部には通風管や幌枠を設ける改造が実施されている[2][3]。いずれも鋼板組立式台枠、板ばねのボキー台車を装着する。


28901号機 (C51 102) 以降では空気ブレーキ装置の装備が始まった。歩み板を2段として歩み板と動輪の間にスペースを取り、第2動輪上の歩み板下に空気だめが取り付げられ、運転室床面から歩み板への距離も上に延長され高くなっている。



お召し仕様 C51 201(1940年撮影)

なお、本機は広軌改築論が取り上げられていたこの時期、改軌を是とする島安次郎ら工務局技術陣が狭軌[注 6]の能力の限界を示すために設計したといわれる。

しかし、実際には改軌論者の技術側の筆頭である島は当初、将来広軌改築が成った時に火室を拡幅出来ることと、牽き出し時に動輪の軸重が一時的に増す利点[注 7]から従輪無しの機関車を考え、また計画図を書いていた。 島は8620形の設計サンプルとして8700・8800・8850・8900の4形式を輸入した際に、アルコ社製の8900形がメーカー側の主張に従い従輪付きのパシフィックに仕様変更されたことに抗議の念を持っていたが、本形式はその後の政治状況の変化で広軌改築を諦めざるを得なくなったが故に、狭軌で火室拡大を実現するため、やむなく従輪ありの8900形を基本として、8850形の高重心を許容する設計や8800形の弁装置周りの設計を参考としつつ、日本風に設計し直したものであった。こうして完成した本形式の性能は当時の国産内地向け蒸気機関車としては飛躍的に向上し、8900形に並んだと評された。鉄道院首脳陣も「これ程の機関車があれば狭軌で十分」として、結局は広軌論者が主流をなしていた工務局自らが改軌論争に止めを刺す結果となってしまった。[要出典]


製造[編集]

1919年から1928年の間に、鉄道院(省)浜松工場・汽車製造(大阪)・三菱造船所(神戸)において、合計289両が製造された。


最初の18両は国鉄各工場で部品を分担製造し、浜松工場で最終組立を行なうといった珍しい手法が採られた[注 8]。これは試作的なものだったらしく、性能試験などを行なった後、民間メーカーでの量産が開始された。量産形のうち大部分の249両は汽車会社が独占的に製造、他に三菱造船所が1926年から22両を製造している。


運用[編集]

日本国内での運用[編集]

従来と比較して飛躍的な性能向上を実現した機関車で、牽引力・高速性能・信頼性において高い水準を達成した。1920年代から1930年代には主要幹線の主力機関車として用いられた。


1930年から1934年まで超特急「燕」の東京 - 名古屋間牽引機を務めたことは有名である。1931年には常磐線でC51 283が試験のためボギー客車を2両牽引して120km/hを出し、37kg軌条における記録を打ち立てた[4]。


また、C51 239は僚機C51 236とともにお召し列車の専用機関車に指定されており、1928年11月の昭和天皇の大礼から1953年5月の千葉県下植樹祭までに牽引回数104回という大記録を打ち立てた、昭和時代後半のEF58 61に匹敵する存在であった。


しかし、輸送量の増加や、重量の大きな鋼製客車の主流化などによる牽引定数の増大に伴い、後続のC53形やC59形などに任を譲り、1930年代以降東海道・山陽本線の優等列車牽引からは退いて地方幹線に転じた他、一部は中国大陸へ供出された(後述)。


戦後も適度な大きさから地方幹線の旅客列車牽引に重用されたが、製造年が古いため、動力近代化計画が実行に移されると早々に廃車が進められ、1965年に全車が運用を退いた。最終廃車は1966年2月廃車のC51 251である。


なお、晩年に至るまでの改造は非常に多岐に渡り[注 9]、末期には原形に近いスタイルを保った車両を見つけるのは困難であったとされる。


中国大陸への供出[編集]


供出先の華中鉄道で運用中のC51 116。(蘇州駅、1939年1月30日)

1938年には、陸軍の要請により16両(C51 8・28・30・33 - 35・88・95・96・116・130 - 132・173・175・178。いずれも住山式給水加熱器を装備)が標準軌仕様に改造のうえ供出され、中国の華中鉄道に送られた[5]。パシナ型とも呼ばれた[注 10]華中鉄道のC51形は南京・上海・杭州の各機関区に配属され[5]、江南を中心に南京 - 上海間で運転された。


中華人民共和国成立後も存在し1951年ㄆㄒ9形(注音記号パシ)となり、のちSL(勝利)9形となったが、1990年には存在せず形式消滅している[6]。本形式は現地での車両数が少なかったことから、保守面で問題が生じ早期に廃車になったものと推測されている[5]。


試験改造機[編集]


C51 61(名古屋機関庫、1929年6月)

製造後間もない頃から昭和初期にかけ、燃焼率や効率の改善を目的とし各管理局ごとに様々な改造を施された車両が存在した。いずれの車両も試験期間が終了した後は原型に戻された。


煙室延長

燃焼効率を高めるため、C51 13・33が500mm、C51 133・155・159・189が800mm、それぞれ煙室を延長する改造を受けた。

2本煙突

シンダ飛散防止のため、C51 50・78・143・246が2本煙突化の改造を受けた。覆いにより外観上は1本煙突に見える。

傾斜煙突

排煙効果を高めるため、C51 78・121・182・192・270が傾斜煙突化の改造を受けた。C51 78は2本煙突から改造されている。

半流線型化

C51 61が前面・運転室・テンダー周りの半流線型化改造を受けた(→[1])。

集煙・排煙装置取り付け

C51 135が煙突前部に傾斜板、C51 130が煙突後部に反射板、C51 176が煙突上部に傾斜円筒板、C51 278が煙突両側から後部にかけて排煙装置を取り付ける改造を受けた。

燃焼室取り付け

C51 184が燃焼室を取り付ける改造を受けた。

製造年・メーカー一覧[編集]

C51 (18900) 形製造年別両数一覧

製造年 両数 累計

1919 3 3

1920 12 15

1921 37 52

1922 27 79

1923 70 149

1924 26 175

1925 10 185

1926 42 227

1927 54 281

1928 8 289

C51 (18900) 形製造所別番号一覧

※最終8両のみ最初からC51として落成、他は18900形で落成してから改番

製造所 両数 機関車番号

浜松工場 18 18900 - 18917

汽車会社 249 18918 - 18999、28900 - 38910、

38917 - 38939、38944 - 38964、

38969 - 38980

三菱造船所 22 38911 - 38916、38940 - 38943、

38965 - 38968、C51 282 - 289 (38981 - 38988)

合 計 289 () 内は18900形として落成していた場合の予定番号

保存機[編集]

C51 5,44,85,239の4両が現存する。C51 5は国鉄が当初より保存したもの、C51 44,85は教習用に切開したもの(カットモデル)、C51 239は教習用に切開したのち外観を復元したものである。国鉄制式機としては比較的早く1966年に全廃されたため、自治体運営の公園や公共施設等に保存されたものはない。カットモデル化されず完全な状態で保存されたC51 5も保存中に土砂災害により被災し復旧されたため、仮に動態復元しようとしても、それに耐える状態で保存されているものはない。


C51形保存機一覧

画像 番号 所在地 備考

C51 44 秋田県秋田市土崎港東3丁目

秋田総合車両センター 1955年に廃車となったあと教習用として切開(カットモデル)され当時の土崎工場に設置され、以後保存されている。

C51 5 埼玉県さいたま市大宮区大成町3丁目47

鉄道博物館 1962年、青梅鉄道公園の開園により同園に保存された。1982年9月12日、台風に伴う大雨で保存場所の地盤が崩落したため転覆し損傷したが修復された。2007年に鉄道博物館の開館に伴い同館に移設された。

C51 239 京都府京都市下京区観喜寺町

京都鉄道博物館 1962年10月に廃車となったが、その歴史的経緯から解体されることなく新潟鉄道学園に保存され、教習用にボイラーを切開して展示されていた。2年後に起きた新潟地震では被災したものの復旧されている。1972年に長野工場で整備され、梅小路蒸気機関車館に保存された。この整備によりボイラー周囲が新製され外観は復元されたが、静態保存が前提であったため内部までは完全に修復されておらず、車籍も復帰していない。お召仕様としての数々あった特殊装備(給水ポンプを取り付けず単式空気圧縮機を二機搭載)は新鶴見区からの転出時に一般化改装され、炭水車は水槽容量の大きい20m3形のままであったが、晩年さまざまな改造を施された僚機の多い中にあって、概ねエアブレーキ搭載後の盛時に近い形態を保っている。2006年、「梅小路の蒸気機関車群と関連施設」として、準鉄道記念物に指定された。

C51 62 福岡県北九州市門司区

門司機関区

※解体済み 門司機関区でカットモデルとして使われていた。

C51 85 鹿児島県鹿児島市上荒田町39-12

鹿児島車両センター 1956年に廃車となったあと教習用として切開され当時の鹿児島工場に設置され、以後保存されている。

18900形の付番法[編集]

18900形の製造順と番号の対応は、1番目が18900、2番目が18901、3番目が18902、…、100番目が18999となるが、101番目は万位に1を加えて28900とした。その後も同様で、下2桁を00から始め、99に達すると次は万位の数字を1つ繰り上げて再び下2桁を00から始め…という付番法とした。したがって、100番目ごとに万位の数字が繰り上がり、200番目が28999、201番目が38900、…となる。


このため、ナンバーと製造順を対応させる公式は、次のとおりである。


(万の位の数字-1)×100+下二桁の数字+1=製造順


また、1928年の称号規程改正によるC51形への改番については、番号順に18900をC51 1、18901をC51 2、 … 38980をC51 281とした。


脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

^ 毎分300回転が推奨されていたとされる。もっとも、同時期のイギリスやアメリカの蒸気機関車では既に毎分336回転以上が実現されており、またドイツでも同様に毎分330回転以上での走行が可能な機関車がこの時代には製造されていた。チェコやポーランドなど戦後まで毎分300回転を採用した国も存在する

^ 重心高さは1,562mmとなり、当時としてはもっとも重心の高い機関車であった。

^ 9600の台枠と異なり、軸箱守鋳物は台枠側面に貼り付ける構造ではなく台枠本体に差し込む形で、朝倉希一いわく棒台枠の構造に近い。このため、軍供出・標準軌改造の際9600のような簡便法によることは出来ず、一旦台枠を分解し拡幅した中間体に差し替える作業を必要とした[1]。

^ メインロッド長2,438mm。

^ メインロッド長3,100mm。なお、この値は以後の国鉄パシフィック機の標準値となった。

^ 1,067mm軌間。元々は明治期の鉄道創業時にイギリス人技師の推奨により、建設費が廉価な植民地向け軌間を採用したものであった。

^ 実際に標準軌間を採用するイギリスのグレートウェスタン鉄道などでは、この点を買って従軸を持たないテンホイラー(2C=先輪2軸、動輪3軸)を第二次世界大戦後、国有化した後まで継続的に新製投入している。

^ 初号機の落成は1919年12月であった。

^ 連結器の自動連結器への交換、給水加熱器の追加、自動空気ブレーキ採用に伴う空気圧縮機・空気タンクの追加、油灯であった前照灯のタービン発電機およびこれによって点灯する電灯への変更、除煙板の追加、長年の酷使と強度不足による輪芯変形への対応としてのボックス式動輪への換装、化粧煙突からパイプ煙突への取替えなど。ごく少数であるがATSを取り付けた車両もある。C51 259は1941年に起きた塚本駅衝突事故の復旧機であり、キャブと炭水車がC57と同じものになっていた。

^ あじあ号を牽引したことで有名な南満洲鉄道のパシナ型とは関係がない。

出典[編集]

^ 国鉄蒸気機関車史 ネコ・パブリッシング刊、髙木宏之著、p.43

^ プレス・アイゼンバーン『C52・C53』1973年、p.346 『C52の形態雑考』

^ プレス・アイゼンバーン『レイル』No.24 1989年4月、 p.117 『沼津機関区の「燕」牽引仕業について』

^ 蒸気機関車EX(エクスプローラ) Vol.41 イカロス出版(出版)P35

^ a b c 田邉幸夫「続 大陸の鉄輪 22-I 2C1テンダ KC100・パシシ・C51たちと華中鉄道」『鉄道ファン』1984年8月号、pp.114-118.

^ 中国蒸汽機車世紀集影 中国鉄道出版社 ISBN 7-113-04148-5 2001年7月発行

関連項目[編集]


ウィキメディア・コモンズには、国鉄C51形蒸気機関車に関連するカテゴリがあります。

松川事件 - C51 133が罹災列車を牽引していた

隠す

表話編歴

 日本国有鉄道(鉄道院・鉄道省)の制式蒸気機関車

タンク機関車

B型機

960 - 1000II - 1060II - 1070 - 1150 - B10 - B20


C型機

2700II - 2900 - 3500 - C10 - C11 - C12


E型機

4100 - 4110 - E10 - HE10(計画のみ) - HE11(計画のみ)


テンダー機関車

B型機

6250 - 6700 - 6750 - 6760 - B50


C型機

8500II - 8620 - 8700 - 8800 - 8850 - 8900 - C50 - 18900/C51 - 8200II/C52 - C53 - C54 - C55 - C56 - C57 - C58 - C59 - C60 - C61 - C62 - C63(計画のみ) - HC51(計画のみ)


D型機

9550 - 9580 - 9600 - 9900/D50 - D51 - D52 - D60 - D61 - D62 - HD53(計画のみ) - HD60(計画のみ)


E型機

KE50(計画のみ)


マレー式

9020 - 9750 - 9800 - 9850


特殊狭軌線用機関車

(全てタンク機関車)

B型機

ケ100 - ケ110


C型機

ケ150 - ケ160 - ケ170 - ケ200 - ケ210


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  国鉄8620形蒸気機関車

 



国鉄8620形蒸気機関車


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(引用編集)

国鉄8620形蒸気機関車

京都鉄道博物館で動態保存されている8620形8630号機

京都鉄道博物館で動態保存されている8620形8630号機

基本情報

運用者 鉄道院→日本国有鉄道

九州旅客鉄道

製造所 汽車製造、川崎造船所、日本車輌製造、日立製作所、三菱造船所

製造年 1914年 - 1929年

製造数 672両

主要諸元

軸配置 1C

軌間 1067 mm

全長 16765 mm

全高 3785 mm

機関車重量 48.83 t(運転整備)

44.54 t(空車)[注釈 1]

動輪上重量 41.46 t[注釈 2]

炭水車重量 34.50 t(運転整備)

15.50 t(空車)[注釈 3]

総重量 83.33 t(運転整備)

60.04 t(空車)[注釈 4]

固定軸距 2286 mm

先輪径 940 mm

動輪径 1600 mm

シリンダ数 単式2気筒

シリンダ

(直径×行程) 470 mm × 610 mm

弁装置 ワルシャート式

ボイラー圧力 13.0 kg/cm2[注釈 5]

大煙管

(直径×長さ×数) 127 mm×3962 mm×18本[2]

小煙管

(直径×長さ×数) 45 mm×3962 mm×91本[2]

火格子面積 1.63 m2

全伝熱面積 110.9 m2[注釈 6]

過熱伝熱面積 28.8 m2[注釈 7]

全蒸発伝熱面積 82.1 m2[注釈 9]

煙管蒸発伝熱面積 72.0 m2[注釈 10]

火室蒸発伝熱面積 10.1 m2

燃料搭載量 6.00 t

水タンク容量 13.0 m3[注釈 8]

制動装置 真空ブレーキ→自動空気ブレーキ

最高速度 90 km/h[要出典][3]

出力 558 kW[要出典]

シリンダ引張力 91.2 kN[4]

粘着引張力 101.6 kN[5]

備考 『鉄道技術発達史 第4篇』 p.226の諸元表の自動連結器付、石炭搭載量6 tの455 ft3形炭水車付の機体のデータに拠り[6]、必要に応じて『8620形機関車明細図』 p.5の諸元表の同じく自動連結器付、455 ft3形石炭6 tタイプ炭水車付の機体のデータ[2]を注記。

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8620形の形式図、ねじ式連結器付、石炭搭載量6 tの455 ft3形炭水車付の機体

8620形は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道院が導入した、旅客列車牽引用テンダー式蒸気機関車である。


導入の経緯[編集]

明治末期の1911-13年に急行列車牽引用の大型旅客列車用機としてイギリス・アメリカ・プロイセン(当時)の各国から、車軸配置2Cの8700形・8800形・8850形および、2C1の8900形が輸入され、1912年6月にはこれらを使用して新橋 - 下関間に特別急行[注釈 11]が運行されるようになった。一方、当時の運輸状況ではこれらより若干小型で急行列車も牽引可能な旅客用機の需用が多かったため[7]、九州・関西・東北・奥羽の各線でも使用できる[8]機体として、8800形などを参考に日本の蒸気機関車国産化技術の確立を目的として[要出典]本項で記述する8620形が導入された。汎用性を重視して、将来輸送量が増加した際には地方線区に転用することを考慮して[要出典]設計された。


ボイラーは、ベースとなった8800形などでは80.5 km/h(50 mph)での連続走行に対応した連続蒸発量を確保できる大型のものを搭載していたが、本形式の運行が想定された二級幹線の急行列車は連続走行速度64.4 - 72.4 km/h(40 - 45 mph)であり、ボイラー容量は8800形などにおける連続蒸気発生量の8割程度のもので十分とされたため、8800形などより二回り小型のボイラーを搭載することとした[9]。


一方、走行装置は動輪直径を8800形と同じ1600 mm、シリンダー直径も同形式と同じ470 mmとして急行旅客用に使用できるようにしている[7]。また、十分な粘着重量を確保する[7]とともに、線形が悪く勾配も多い二級幹線での運用に対応するため[9]動軸を3軸とした一方で、当時の旅客用機は先台車を軌道に対する追従性を考慮して2軸ボギー式とすることが通例となっていた[8]ため、ボイラーの小型化による重量減への対応として本形式では車軸配置2Cの8800形から先輪を1軸少なくして車軸配置を1Cとしながら、1軸の先輪と第1動輪とを特殊な台車に装備して2軸先台車と同様の作用をさせていることが特徴となっている[7]。


大正期における機関車の設計は、主要寸法を定める概要設計は鉄道院・鉄道省で行われ、詳細設計は鉄道省で実施する場合とメーカーで実施する場合の両方があった。例えば6700形やC51形は鉄道院・鉄道省で、9580形や9600形はメーカーで詳細設計を行っている。一方で本形式はD50形などとともに一部を鉄道省、一部メーカーで行う方式としており[10]、鉄道省の津田鋳雄、汽車製造会社の池村富三郎が詳細設計を担当した[8]。


また、製造は当初1913-19年度発注分は汽車製造会社が担当しており(一方で9600形は1917年度に汽車製造会社に発注されるまでは川崎造船所のみが製造している[11])、その後1920年度発注分から日立製作所[注釈 12]と川崎造船所が、1921年度発注分から日本車輌製造が、1924年度発注分から三菱造船[注釈 13]がそれぞれ製造に参加して1925年度までに計670両、間をあけて1928年度に2両が発注されている[12]。なお、このうちの日立製作所笠戸工場と三菱造船神戸造船所は第一次世界大戦終戦に伴う造船不況を契機に新たに機関車の製造に参入したものであり、日立製作所笠戸工場は当初鉄道省からの機関車の発注を得られなかったため、8620形を自主製造して製造能力を示してその後の受注につなげており[13]、神戸造船所は三菱鉱業美唄鉄道の2-4号機の製造実績があり、空気ブレーキ装置の製造所でもあったため受注を得ることとなっている[14]。


概要[編集]

ボイラー[編集]

ボイラーはベースとなった8800形のものより二回りほど小さい[9]もので、火格子面積は12.5%縮小した1.63 m2(17.5 m2)、内径は76 mm(3 in)小さい1245 mm(4ft 1 in)、煙管長は610 mm(2 ft)短い3692 mm(13 ft)となっており[15]、全伝熱面積116.3 m3、過熱面積27.6 m2、使用圧力は8800形と同一の12.7kgf/cm2(180 lbf/in2)である[1]。また、ボイラー中心高は8850形と同一の2438 mm(8 ft)で、機関車重心高さは8850形の1521 mmや9600形の1532 mmを超える1557 mmである[16]ほか、煙突中心がシリンダー中心より168 mm(72-5/8 in)前方にずれている [17]。


本形式の火室の火格子面積/火室容積比は、石炭中の炭素および揮発性成分[注釈 14]の両方が十分に燃焼されるため適切とされる1.6 - 2.0の範囲内の1.66となっているが、鉄道省(国鉄)の国産過熱式蒸気機関車で火格子面積/火室容積比がこの範囲の火室を有するのは本形式のほか、C50形(1.65)、D52形(燃焼室甲で1.81、燃焼室乙では1.79)および同形式のボイラーを使用するD62形、C62形のみで、その他の機体は適切値を下回っている[19]。


また、本形式は8800形などに引き続きシュミット式の過熱器を装備しているが、過熱蒸気の温度確保のため全伝熱面積に占める過熱面積の割合を9600形などまでの機関車より大きくしたことが特徴となっている[7]。シュミット式過熱器の開発元であるプロイセンのシュミット過熱蒸気会社[注釈 15]では、適切な温度の過熱蒸気を得るために大煙管外径、小煙管外径、過熱管外径の組み合わせごとに、小煙管と大煙管の本数の推奨比を定めており、本形式の場合では7.54であった[20]。8800形および8850形では推奨値5.28のところ、実機はそれぞれ6.43、6.29と大煙管の本数が若干少ない程度であったが、過熱蒸気の温度が通常では300 °Cを超えることができず、当初この原因について、狭火室で内火室が細長いため火室における伝熱が大きく、過熱管における伝熱がその分小さいためと考えられていた。しかし、広火室で小煙管本数/大煙管本数比もシュミット社の推奨値を超えていた9600形、4110 形でも300 °C以上の蒸気を得ることができなかった[20]。そこで本形式では大煙管をシュミット社推奨の14本から18本[21]、煙管本数/大煙管本数比をシュミット社推奨値の7.54から5.06と過熱面積を拡大して、300 °Cを超える過熱蒸気を得ることができるようになり[20]、1915年の試運転では340 °Cに達した[22]。本形式の実績を受けて、鉄道省では過熱面積/全蒸発面積比を重視、本形式の0.310を参考に、約0.3程度を目指す事としてボイラー設計を行い、例えば9600形も9658号機以降は大煙管本数を増やすことでこの値を0.264としている[23][注釈 16]。


1914年度発注の8644号機以降[25](8672号機以降とする文献もある[26][27]。)は煙室の通風改良のための設計変更が実施され、排気ノズルの先端が368 mm(14-1/2 in)を下げるとともに煙突内径を51 mm(2 in)拡大して[15]先端部の内径が406 mm(16 in)から457 mm(18 in)と太くなっており[28](9600形でも1914年発注の9652号機項に同様の設計変更が実施されている[29]。)、これはプロイセン王国のG・シュトラールの理論に基づき6700形で施行した結果が良好であったため、採用が拡大されたものである[30]。また、当初は煙室内の過熱装置前部に過熱機ダンパーを装備して惰行中における過熱管の過熱や力行中における過熱蒸気の温度過上昇を防止していたが、前述のとおり過熱温度が300 °Cを超える程度であったため[23]、1922年頃の製造分よりこれを廃止している[25]。


走行装置[編集]

車軸配置は1C(日本国鉄式)、2-6-0(ホワイト式)もしくは通称モーガルと呼ばれる配列で、当時の旅客用機関車で一般的であった2軸ボギー式台車を本形式では先輪と第1動輪を一体化した「省式心向キ台車」に置換えて曲線通過性能を良くしており、その最小半径は80 mで、後年のローカル線用タンク式蒸気機関車であるC12形と同等である[8]。また、走行装置の基本的な寸法は8800形をベースとしており、動輪直径、動輪軸間距離、シリンダー径×行程、ピストン弁径、シリンダー中心 - ピストン弁中心間距離、左右シリンダー中心間距離が同一となっている[注釈 17][15]。このため、シリンダー引張力(シリンダー平均有効圧をボイラー圧力の85 %とした場合の引張力[注釈 18][4])も同一の91.2 kNである[4]が、ボイラーは小型化となった一方で先輪が1軸少なくなったため、動輪上重量が39.76 t(1931年形式図で41.46tに修正[1])と8800形の36.77 tを上回り[15]、粘着牽引力(動輪周上重量に粘着係数(鉄道省では0.25に設定[注釈 19])を乗じた数値)は101.6 kNとなっている[5]。


この結果、動輪周上重量とシリンダー引張力の比率である粘着率[32]が4.5となり[33]、これは後継のC50形は4.3 - 4.5と同等であるが、8620および9600の代替機のC58形の3.2 - 3.3[34]や勾配線区用の4110形の4.3[35]を上回っている[注釈 20]。動輪の粘着力がシリンダー引張力を大きく上回る[注釈 21]ため、「絶対に空転しない機関車」ともいわれており、空転に苦慮していた乗務員からの信頼が厚く[要出典]、本来の旅客用高速機という用途から外された後は勾配のあるローカル線での仕業や、入換仕業で力を発揮した[注釈 22]。が、現役時代には引き出し時や坂道で空転を繰り返しながら走行する様がたびたび目撃されている[42]。ただし、これはシリンダ力が小さいことの表れでもあり、勾配線ではシリンダ力の不足により空転も起こさずに自然停車する様な状態だった。後継のC58は低下した粘着係数を撒砂などで補い、シリンダ力を強く持たせ勾配で止まらない設計となっている[43]。 そのため、勾配や曲線、トンネルなどが連続してる難所では性能が足りず苦闘する一幕もあり、こうした線区ではパワーに勝るC58が乗員と乗客の双方から歓迎された[44]。終戦直後の混乱期には老朽化と戦中の酷使が深刻化した4110形の補充として、米沢機関区から1両の8620形と9600形が試用されたが、勾配区間(33.3パーミル)では空転が多く、4110形が最も安定していた[45]。


台枠は板台枠[7]で、25 mm(1 in)厚鋼板製のフレームを機関車先端部 - 第1動輪部分間は857 mm(33-3/4 in)間隔、第2動輪部分 - 機関車後端部までは908 mm(35-3/4 in)間隔で左右に配置して、これを鋼板と山形鋼を組立てた前端梁、後端梁、デッキプレートなどや鋳鋼製のボイラー台などで箱型に組立てて[46]、そこに鋼板と山形鋼を組立てた歩み板や、鋳鋼製のシリンダーブロック、軸箱守、加減リンク受、逆転軸受、釣合梁受などを取付けたもので、第1動輪が横動するためにこの部分より前部が51 mm(2 in)狭くなっていることが特徴である[15]。


先台車は、現在のドイツ、オーストリアとイタリアに例があった、クラウス・ヘルムホルツ式(ドイツ語版)、ツァラ式[注釈 23]に着想を得て[注釈 24]島安次郎が考案して主要部分の設計を行い、詳細設計を汽車会社で実施したもの[7]で、当初「島式」、後に「省形心向キ台車」と呼ばれた[8]。構造は先台車の軸箱の左右と、第1動輪の中間軸箱の前部中央に設けられたピボットの間を山形鋼2本で三角形に結んで台車枠を構成し、この台車枠中央部とシリンダーブロック後部の間にコイルばねを内蔵した復元ばね箱を設置し、動軸の中間軸箱と復元ばね箱の間に復元心向棒を渡したものとなっており[47]、復元ばね箱を仮想的なピボットとして[8]、中間軸箱部を支点とする先輪の転向と第1動輪の32 mm(1-1/4 in)の左右動および、復元ばね箱自体の左右動を合わせて2軸ボギー台車と類似の動作をするものとなっている。また、1916年度発注の18628号機以降は先輪の軸箱上部にリンク式の復元装置を設けて半径122 m(400 ft)の曲線上での復元力を0.84 tから約2.2 tに強化するとともに、軸ばねからの荷重を先輪軸箱の左右に直接掛けていたものを釣合梁と釣リンクを介して軸箱上部中央の1点に掛ける方式に変更しており、従来の機体も同様の方式に改造をしている[48]。このほか、先輪径は当初直径970 mm(38 in)のものを使用していたが[49]、その後C51形と共通の940 mmのものに変更されており[50]、先台車軸箱もこれに対応した2種が用意されている[51]。


この先台車は設計側では構造が簡単で曲線通過性能も良いとされた一方で検修側の評判は必ずしも良くなかったとされ[8]、東京鉄道局の実績では、第1動輪のタイヤフランジの10000 kmあたりの平均摩耗量が、本形式の後継で車軸配置が同じ1CのC50形は0.49 mmであったのに対し本形式は1.22 mmと約2.5倍であった[52]ほか、この方式は先輪フランジの偏摩耗が生じることがあり[要出典]、本形式以外での採用例はない[注釈 25]。


ブレーキ装置[編集]

ブレーキ装置は当初自動真空ブレーキ、手ブレーキを装備しており、運転室下部にブレーキ用のピストン2基を搭載し、基礎ブレーキ装置は動輪3軸に作用する片押式の踏面ブレーキとなっている。また、制輪子は制輪子吊に直接取付けられる甲種[注釈 26]のうち、甲-9号を使用する[53]。


1919年に鉄道省は全車両に空気ブレーキを採用することを決定し、1921年から1931年上半期にかけて全車両が空気ブレーキ化されており[54]、本形式も1923年度発注の68661号機以降は空気ブレーキを装備して製造された[25]一方でそれまでの機体も順次真空ブレーキから空気ブレーキに改造されている。蒸気機関車用の空気ブレーキはアメリカのウェスティングハウス・エア・ブレーキ[注釈 27]が開発したET6を採用しており、この方式はH6自動ブレーキ弁、S6単独ブレーキ弁、6番分配弁、C6減圧弁、B6給気弁などで構成されるもので、その特徴は以下のとおりとなっている[55]。


構造が簡単で取付および保守が容易。

非常ブレーキが使用可能。

ブレーキ弁に連動して元空気ダメ圧力を2段階に設定可能。

後部補助機関車もしくは無火回送時においても客車・貨車と同様にブレーキが作用する。

連結器[編集]

「連結器#日本」も参照

連結器は当初、基本的にはねじ式連結器を装備していたが、北海道においては、道内最初の鉄道である官営幌内鉄道が1形(後の鉄道院7100形)に当初より並形自動連結器を使用して以降これを標準としていたため、本形式も1917年に最初に北海道に配置された18649号機以降がこれを装備していた[22]。なお、設置高さが後の鉄道省の自動連結器より低い660 mmであった[56]。


1919年に鉄道省は全車両のねじ式連結器を交換する方針を決定し[57]、まず、北海道内の車両の連結器高さを878 mmに変更することとして、1924年8月13-17日に一斉に工事を実施している[58]。続いて北海道以外の車両については、九州以外は1925年7月16-17 日に 、九州は7月19-20 日に一斉にねじ式連結器から自動連結器への交換を実施している[59]。本形式においてもこれに伴って連結器の交換を実施しているほか、1925年発注の78694号機以降は自動連結器を装備して製造された[25]。なお、当初は解放テコが連結器右側のみに設けられるものであったが、1930年頃より両側から解放操作が可能なものに改造されている[60]。


その他[編集]

外観は6700形以降D50形までの明治末期から大正期にかけての鉄道院・鉄道省の国産蒸気機関車の標準的なデザインとなっており、化粧煙突、前部デッキから歩み板にかけての乙形の形状が特徴であったほか、運転室側面裾部は8620 - 8643号機[61]が8800・8850形や9600形9617形までなどと同様のS字形、8644号機以降が8700形や9600形9618号機以降と同じ乙形の形状となっている[注釈 28]。また、空気ブレーキ装置を装備した1923年発注の68661号機以降は歩み板の後半部が一段高くなって運転室側面下部の乙字形につながる形状となっており、運転室裾部を炭水車台枠上部に揃えたものとなっている[63]。


砂撒き装置は当初は重力式のもので第2動輪の前側に撒砂される方式であった[49]が、空気ブレーキ装備後の1924年発注の78670号機から空気式となり[25]、第1動輪前方と第2動輪後方に撒砂される方式[64]となり、以前の機体も空気式に改造されている。


8620 - 8643号機の炭水車は、石炭搭載量は3.05 tで炭庫上部が外側に若干開いた形状の2670英ガロン(12.14 m3)形、8644号機以降は9600形9618号機以降のものと同一形式で石炭搭載量は3.30 t、炭庫上部が垂直の形状となった455 ft3(12.88 m3)形となっており、さらに18688号機以降は9600形49602号機以降と同じく、形式は455 ft3形のまま炭庫を上部に拡大して石炭搭載量を6 tとしたタイプとなっている[11][15][65][6]。


改造[編集]

本形式の複式のピストン弁は単式のものよりも平均有効圧が高いため採用されたものであったが、後に蒸気漏れが大きいことから単式が一般的となり、同じく複式であった9600形、D50形、C51形などとともに単式への改造が1930年代から第二次世界大戦後にかけて実施されている[66]。


当初は灯火類にランプを使用していたが、後のC51形やD50形が1927年度発注分より電気照明となり[67]、本形式もその後ボイラー上部に発電機を搭載して前灯、標識灯、運転室内灯、計器灯などが電灯化されている[68]。しかし電灯もランプである。


除煙板は1927年頃より各鉄道局で試験されていた除煙装置の一つで、1932年製のC54形から制式化されており、本形式においてもこの頃より一部の機体に追加装備されている[69]。また、後年には小倉工場式切取り除煙板(通称門鉄デフ)を装備した機体もある[70]。


前述の8620...68660号機の空気ブレーキ化改造においては、当初より空気ブレーキ装置を搭載していた68661号機以降と同様に歩み板を2段としてその下部に元空気溜を吊下げる方式と、段差無しの歩み板のままその上部に元空気溜を置く方式の2つの方式が採られている。一方、1927年頃より運転室の床を2段から1段に変更する改造が実施されているが、この際に運転室側面の裾部を従来通り炭水車台枠上部と合わせた低い位置のままとした機体と、運転室床面と合わせた高い位置まで上げて裾部形状をいわゆる”位置の高い浅い乙字形”もしくは”位置の高いS字形”とした機体の2種があり[63]、前者の運転室側面裾部の形状は、歩み板が段差無しの機体は”位置の低い浅い乙字形”もしくは”位置の低いS字形”、2段の機体は”深い乙字形”となっている。


本形式は長年に亘り運用されており、後年の改造は多岐にわたっているが、回転式火粉止や前照灯類の交換といった当時の蒸気機関車における一般的なもののほか、主なものは以下の通り。


ボイラーへの給水を排気によって加熱する給水加熱器は鉄道省においては1914年から試作・試用が始まった[71]が、本形式においても本省式、ウェアー式、本省細管式、住山式、ウォーシントン式、メカトーフ式が1921年から1925年にかけて計37両に搭載されている[72]。なお、給水加熱器は1923年製のD50形から制式化され[73]、在来の機体に対しては1938年度にかけて9600形の約200両やC51形のほぼ全機など553両に搭載されている[74]が、本形式への搭載例は多くない。

1928年にC51形6両に対して煙室を延長してシンダーによる沿線火災防止や旅客サービス向上などを図る改造が実施されている[75]が、類似の煙室延長改造が本形式においても一部の機体 (8657号機[76]、18629号機、28667号機[77]、38690号機[78]、68633号機[77]など)に実施されている。

煙突を化粧煙突からパイプ煙突に交換した機体[79]が多いほか、原形のものより長さの長い化粧煙突に交換した機体(18658号機[80]など)もある。

一部の機体(48674号機[79]、48676号機[81]、48679号機[70]、68658号機[81]など)は、入換時等の後方視界の確保のため、炭水車をC56形のものと同様の上部の幅を狭い形状に改造している。

鷹取機関区東灘支区で神戸港での入換用に使用されていた機体は煙突の前部に警鐘を装備しており(8651号機[82]、18670号機、48667号機[33]、88639号機[33]など)、この鐘は市街地の踏切等において汽笛の代わりに使用されるもので、空気シリンダーとテコによって動作するものであった。

一部の機体(48667号機[33]、48633号機[83]、78657号機[84]、48676号機[85]など)動輪をスポーク輪心からボックス輪心のものに交換している。

なお様々な改造が実装されたことで各動輪の軸重が変化している。当初は最大軸重は第3動輪の13.48t[86]であったが、改造により第2動輪の14.35tが最大となった[87]。のちに第2動輪は最大14.4tとなり最小軸重である第1動輪の13.3tと1t以上の差がある、他形式でも殆ど例のない軸重バランスの悪い形式となったばかりか、丙線規格の軸重も超過している[88]。


付番法[編集]

8620形の製造順と番号の対応は、1番目が8620、2番目が8621、3番目が8622、…、80番目が8699となるが、81番目を8700とすると既にあった8700形と重複するので、81番目は万位に1をつけて18620とした。その後も同様で、下2桁を20から始め、99に達すると次は万位の数字を1繰り上げて再び下2桁を20から始め…という八十進法になっている。したがって、80番目ごとに万位の数字が繰り上がり、160番目が18699、161番目が28620、…となっており、番号と製造順は万の位の数字×80+(下2桁の数字-20)+1=製造順という関係となる。


例えば58654であれば万の位の数字が5、下2桁が54となるので、製造順は5×80+ (54-20) +1=435両目となる。


製造[編集]

鉄道省で672両を導入したほか、樺太庁鉄道向けに15両、台湾総督府鉄道向けに43両、地方鉄道(北海道拓殖鉄道)向けに2両の同形機が製造されている。


鉄道省[編集]

鉄道省では大正時代の標準形として1914年から1929年の間に672両(8620 ... 88651号機)を導入した。半数以上が汽車製造会社製造。のちに川崎造船所、日本車輌製造、日立製作所、三菱造船所も製造した。樺太庁鉄道の15両は、1943年の南樺太の内地編入に伴い鉄道省保有となり、88652 - 88666号機となっている。樺太向けの15両を鉄道省としての製造両数に含め、製造両数を687両と記載している文献もある。


竣工年度ごとの番号、製造所、製番、両数は下表のとおり。


8620形製造一覧[89]

(上段:番号 下段()内:メーカー製造番号)

年度 汽車製造 日立製作所 川崎造船所 日本車輌 三菱造船所 合計

番号 両数

1914年度 8620-8672

(119-177) 8620-8672 53両

1915年度 8673-8695

(178-200) 8673-8695 23両

1916年度 8696-8699

18620-18652

(201-237) 8696-8699

18620-18652 37両

1917年度 18653-18687

(238-279) 18653-18687 35両

1918年度 18688-18699

28620

(317-329) 18688-18699

28620 13両

1919年度 28621-28681

(330-356,378-411) 28621-28681 61両

1920年度 28682-28699

38600-38648

(412-473) 38649-38660

(1-12) 38661-38678

(628-645) 28682-28699

38620-38678 77両

1921年度 48637-48686, 48697-48699

58620-58622

(516-576) 48627-48636, 48687-48696

58629-58634

(17-42) 38679-38699

48620-48626

(646-673) 38679-38699

48620-48699

58620-58622,58629-58634 110両

1922年度 58660-58699

68620-68621

(605-652) 58635-58659

68650-68654

(43-72) 68622-68639

(872-889) 58623-58628

68640-68649, 68655-68660,

(54-59, 65-80) 58623-58628, 58635-58699

68620-68660 112両

1923年度 68661-68670, 68681-68699

(73-90, 98-113) 68671-68680

78620-78623

(87-94, 107-112) 68661-68699

78620-78623 43両

1924年度 78670-78673, 78687-78692

(808-817) 78640-78659

(114-124, 136-144) 78625-78636[表注 1], 78674-78682

(986-990, 995-999, 1010-1011, 1032-1040) 78624, 78663-78669[表注 2]

(113,125-130, 132) 78637-78639, 78660-78662

(3-8) 78624-78682, 78687-78692 65両

1925年度 88620-88626

(859-865) 78694-78699

88638-88639

(156-160, 174, 187-188) 78683-78686,78693

88627-88632

(133-137, 142-143, 146-147, 152-153) 88633-88637

(11-15) 78683-78686, 78693-78699

88620-88639 31両

1926年度 88640-88649

(189-198) 88640-88649 10両

1927年度 0両

1928年度 0両

1929年度 88650-88651

(331-332) 88650 - 88651 2両

384両 137両 85両[表注 3] 55両[表注 4] 11両 8620-88651 672両

^ 『機関車表』 p.1212では78635-78636号機は日本車輌発注で製造番号112-113予定であった機体が、川崎造船に振替えられ製造番号1010-1011となったものとしている[90]一方、『機関車の系譜図 4』 p.498ではこの2両を日本車輌製としている[1]。

^ 『機関車の系譜図 4』 p.498では78635-78636号機を日本車輌製としている[1]。

^ 『機関車の系譜図 4』 p.498では83両としている。[1]。

^ 『機関車の系譜図 4』 p.498では57両としている。[1]。

また、発注度ごとの製造所、製造両数は下表のとおり。


8620形発注年度別製造両数一覧[12]

年度 汽車製造 日立製作所 川崎造船所 日本車輌 三菱造船所 合計

1913年度 12両 12両

1914年度 40両 40両

1915年度 36両 36両

1916年度 30両 30両

1917年度 30両 30両

1918年度 16両 16両

1919年度 63両 63両

1920年度 42両 12両 46両 100両

1921年度 56両 51両 6両 113両

1922年度 42両 5両 18両 16両 81両

1923年度 29両 15両 44両

1924年度 10両 20両 21両 11両 6両 68両

1925年度 7両 18両 7両 5両 37両

1926年度 0両

1927年度 0両

1928年度 2両 2両

384両 137両 85両[表注 1] 55両[表注 2] 11両 672両

^ 『機関車の系譜図 4』 p.498では川崎造船所の総製造両数を83両としている。[1]。

^ 『機関車の系譜図 4』 p.498では日本車輌の総製造両数を57両としている。[1]。

番号、発注年度ごとの設計変更事項は下表のとおり。


8620形番号別設計変更一覧[25]

番号 発注年度 運転室形状 煙突・煙室 先台車 過熱器ダンパー ブレーキ装置 歩み板形状 砂撒装置 連結器 炭水車 両数

8620-8643 1913年度以降 側面裾部形状:S字形

後部妻板:無 煙突:内径406 mm

排気ノズル高さ:高[表注 1] 先輪軸箱:復元装置無 真空ブレーキ 段差無 重力式 ねじ式連結器 2670英ガロン形 24両

8644-8699

18620-18627 1914年度以降 側面裾部形状:乙字形

後部妻板:有 煙突:内径457 mm

排気ノズル高さ:低 455 ft3形 64両

18628-18687 1916年度以降 先輪軸箱:復元装置有 60両

18688-18699

28620-28699

38620-38699

48620-48699

58620-58699

68620-68660 1918年度以降 無(1922年6月以降) 455 ft3・石炭6 t形 372両

68661-68699

78620-78669 1923年度以降 空気ブレーキ 2段形 89両

78670-78693 1924年度以降 空気式 24両

78694-78699

88620-88652 1925年度以降 自動連結器 39両

^ 8672号機までとする文献もある[26][27]。

樺太庁鉄道8620形[編集]

樺太庁鉄道の8620形は鉄道省8620形の同形車で、15両 (8620 - 8634号機) が製造されて豊原機関庫、泊居機関庫、真岡機関庫に配置された[91]。8620 - 8623号機の運転室は当初は鉄道省の機体と同様のものであったが、後に運転室後部を炭水車前端部まで延長して幌で接続した耐寒構造の密閉型となり、その後の増備機は当初より耐寒密閉型で製造されている[92]ほか、連結器は鉄道省の当初北海道配属となった機体と同じ取付高さの低い自動連結器を装備している一方、ブレーキ装置は真空ブレーキを装備している[1][注釈 29]。1928年および1929年製の11両は、製造当初8万番台の番号 (88620 - 88630) であったが、すぐに既存車の続番に改番された。1943年4月1日の樺太の内地編入による樺太庁鉄道の鉄道省への移管と樺太鉄道局の設置に伴い、これらの機体も鉄道省の8620形に編入されて88652 - 88666号機となった[91]。なお、樺太鉄道局の車両は順次空気ブレーキ化されており、後述する樺太鉄道局へ転属した本形式も空気ブレーキを装備していたが、88652 - 88666号機は1944年1月末時点では全機が真空ブレーキのままであった[93]。


製造年次ごとの番号、製造所、製番、両数は下表のとおり。


樺太庁鉄道8620形製造一覧[91]

(上段:番号 下段()内:メーカー製造番号)

汽車製造 日立製作所 川崎造船所 日本車輌 三菱造船所 合計

番号 両数

1922年 8620-8621[表注 1]

(590-591) 8620-8621 2両

1923年 8622-8623[表注 2]

(739-740) 8622-8623 2両

1924年 0両

1925年 0両

1926年 0両

1927年 0両

1928年 88620-88625→改番8624-8629[表注 3]

(314 - 319) 88620-88625→改番8624-8629 6両

1929年 88630→改番8634[表注 4]

(1103) 88626-88629→改番8630-8633[表注 5]

(349-352) 88626-88630→改番8630-8634 5両

合計 5両 10両 0両 0両 0両 8620-8623

88620-88625→改番8624-8629

88620-88630→改番8630-8634[表注 6] 15両

^ 鉄道省88652-88653

^ 鉄道省88654-88655

^ 鉄道省88656-88661

^ 鉄道省88666

^ 鉄道省88662-88665

^ 鉄道省88652-88666

番号、製造年ごとの設計変更事項は下表のとおり。


樺太庁鉄道8620形番号別設計変更一覧[92]

番号 発注年度 運転室形状 煙突・煙室 先台車 ブレーキ装置 歩み板形状 砂撒装置 連結器 炭水車 両数

8620-8621[表注 1] 1923年 側面裾部形状:乙字形

通常型[表注 2] 煙突:内径457 mm

排気ノズル高さ:低 先輪軸箱:復元装置有 真空ブレーキ 段差無 重力式 自動連結器 455 ft3・石炭6 t形 2両

8622-8623[表注 3]

1923年 2両

88620-88625→改番8624-8629[表注 4] 1928年 側面裾部形状:乙字形

耐寒密閉型 2段形 6両

88626-88629→改番8630-8633[表注 5] 1929年 4両

8630→改番8634[表注 6] 段差無 1両

^ 鉄道省88652-88653

^ 後に耐寒密閉型に改造

^ 鉄道省88654-88655

^ 鉄道省88656-88661

^ 鉄道省88662-88665

^ 鉄道省88666

台湾総督府鉄道E500形[編集]

E500形[94]は、台湾総督府鉄道に納入された鉄道省8620形の同形車で、1919年から1928年にかけて、43両 (500 - 542号機)が製造された。形態は歩み板1段、運転室側面裾部乙字形、真空ブレーキ装備、炭水車は455 ft3・石炭6 t形で、連結器は当初より自動連結器を装備していた[95]。1937年に形式がC95形に改称されたが、番号は変更されていない[96]。第二次世界大戦後にこれらを引き継いだ台湾鉄路管理局が1947年にCT150形(CT151 - CT193号機)に改形式・改番している[96]。


戦後、事故廃車となった2両(CT154, CT155号機)の部品を組み合わせ、一部を新製して、1両(CT194号機)が再製されている[要出典]。


製造年次ごとの番号、製造所、製番、両数は下表のとおり。


台湾総督府鉄道E500形製造一覧[96]

(上段:番号 下段()内:メーカー製造番号)

汽車製造 日立製作所 川崎造船所 日本車輌 三菱造船所 合計

番号 両数

1919年 500-501[表注 1]

(357-358) 500-501 2両

1920年 502-516[表注 2]

(417-419, 449-456, 465-468) 502-516 15両

1921年 517-524[表注 3]

(512-515, 545-548) 517-524 8両

1922年 525[表注 4]

(583) 525 1両

1923年 526[表注 5]

(871) 526 1両

1924年 527-530[表注 6]

(735-738) 527-530 4両

1925年 531-533[表注 7]

(1072-1074) 531-533 3両

1926年 534-536[表注 8]

(894-896) 534-536 3両

1927年 537[表注 9]

(240) 538-540[表注 10]

(182-184) 537-540 4両

1928年 541-542[表注 11]

(54-55) 541-542 2両

33両 1両 4両 3両 2両 500-542 43両

^ 台湾鉄路管理局CT151-CT152

^ 台湾鉄路管理局CT153-CT167

^ 台湾鉄路管理局CT168-CT175

^ 台湾鉄路管理局CT176

^ 台湾鉄路管理局CT177

^ 台湾鉄路管理局CT178-CT181

^ 台湾鉄路管理局CT182-CT184

^ 台湾鉄路管理局CT185-CT187

^ 台湾鉄路管理局CT188

^ 台湾鉄路管理局CT189-CT191

^ 台湾鉄路管理局CT192-CT193

E500形532号機が牽引する列車、1910年代頃

E500形532号機が牽引する列車、1910年代頃

 

530号機が牽引する急行列車、1930年代頃

530号機が牽引する急行列車、1930年代頃

 

新店渓の橋梁を渡る529号機、1935年頃

新店渓の橋梁を渡る529号機、1935年頃

 

E500形が牽引する列車、台北駅、1938-42年頃

E500形が牽引する列車、台北駅、1938-42年頃

 

苗栗鉄道文物展示館で静態保存される台湾鉄路管理局CT152(旧501)号機、2014年

苗栗鉄道文物展示館で静態保存される台湾鉄路管理局CT152(旧501)号機、2014年

JR宗谷本線について解説

    概要 4 **宗谷本線(そうやほんせん)**は、北海道の旭川駅から日本最北端の稚内駅までを 結ぶJR北海道の鉄道路線です。全長は約259kmで、JRの在来線としては最北の路線。 道北の都市や集落を縦断し、生活路線・観光路線の両方の役割を担っています。 起点:旭川駅 終点:...